基督教徒の私と生命科学研究 宍倉 文夫

「証:事実が育って真理に至る道」と題して共助誌に一文を掲載した。この度「これまでの歩みを振り返ると共に、今、何を課題として、どのような歩みを続けておられるのか」寄稿をと飯島さんからお手紙を頂いた。そこで、私の生命科学研究がどのような事実の積み重ねで育てられてきたのかを、そして、退職して故郷に小宅「狐翠庵」を構え、これから何を課題としてどのように歩みを続けたいのか:故を温ね、新しきを知りたい。なお、重複を避けたいため共助66巻5号:21―23(2016)を参考にあげたい。

私の生命科学研究は予測できないところから始まった。第1歩は、東京教育大学理学研究科修士課程動物学専攻に合格したこと。その前年の夏、県の教員採用試験に不合格になり、私立の高等学校に生物学教師として内定していたが、退職予定の先生の都合で、反故になっていた。1972年は東京大学と東京教育大学に、前代未聞の入学試験の廃止のため、4年生がいなかった。合格者は外部から4人を含む7名で、残りの3名は理学部動物学科の卒業生だった。その3人と私が同じ講座になり、修士2年のとき、東京教育大学の博士課程がなくなった。指導教官の関口晃1先生は新設の筑波大学に移ることになった。筑波大学の博士課程は5年1貫制だが3年次編入生を特別に入学させることになり、2名(別の講座のM君と私)が試験を受けた。筑波大学生とは名だけで、教育大の動物学研究室で茗荷谷駅の終電に間に合うまで実験を続け、正門を乗り越え、北浦和のアパートに帰るのが常だった。中庭を隔てて文学部があり、関根正雄さんのギリシャ語の聴講を2年繰り返した。ギリシャ語を齧かじったことはデトロイトの研究仲間からも一目置かれ、若い時に古典語は勉強しておくべきだと思った。筑波大学は、日暮里で常磐線に乗り換え、荒川沖駅から大学中央までバスに乗り、遠い辺境の大学だった。博士論文を提出した時が最初で、博士号を受け取る時が2回目だった(私が筑波大学博士1号、M君が同2号)。その頃も(1978年)研究職が少ないため、ポスドク(日本学術振興会の奨励研究員)を2年間、その後、任期制5年の準研究員(筑波大学は助手制度がなかった。身分は文部技官)に採用され研究を続けたが、4年目に近づくと関口先生が(A教授に講座主任を引き継ぎされ)退官された。「デトロイトでポスドクを探している」手紙をG教授(徳島大学)から頂き、帰国できるかの目途も立たず、隣の研究室の助教授の平林民雄先生にも「研究職の話があったら手紙で教えていただきたい」と懇願して、デトロイト(Wayne State 大学医学部Research Associate の3年契約)へ発った。2年過ぎて、関口研究室の先輩T先生が北里大学から日本大学教授へ異動することになり、平林先生に相談して、1986年6月にアメリカから帰国した。大学院修了後、8年に亘る流鼠の末、漸く講師(日本大学医学部)に就いた。予測できない第1歩には、踏板が必要だった。若い頃で、私も卒業研究のテーマを「動物か植物か」と決めかねていた。基督教朋友会の聖書研究で、「血は命であるがゆえに、レビ記17章11節」という旧約聖書に驚き、「血液」「免疫」「がん」を研究したいと思った。「荒唐無稽か」と思いつつも、「血液研究に自分の能力が耐えられるか」という思いだった。その頃、天達文子さんが書かれていた「第1に神のために何ができるか。第2に日本のために何ができるか。そして第3に始めて自分の能力ということ」を読んだ。小宅でその典拠を読み返したところ、この「3つのこと」は、何を勉強するか解りませんという天達さんに、内村鑑3さんがおっしゃったと記されていた。当時、天達さんの書かれた文が力になり、第3が第1であった私は「能力は最後に考えよう」:(ヒトの血液は有史以来人類が気の遠くなるような膨大なエネルギーを注いできたテーマだ。私は)動物の血液を研究してみよう。須甲鐵也先生の研究材料のアメリカザリガニを使用して「血液が固まる仕組み」を卒論のテーマにした。これが助走だった。日大医学部退職まで、研究材料は異なるものの動物(カブトガニ、ミミズ、マボヤ、ヤマビル、ゾウガメ、アホロートル、コビトカイマン、ヨコクビガメなど)の血液に関する研究を続けることができた。現在は、日本大学理工学研究所(量子科学研究所)の上席研究員として、約半世紀を経て再びアメリカザリガニを材料に、X線と自由電子レーザーの光生物学分野の応用研究を進め、3年になる。他方、お茶の水女子大学理学部生物学科の2年生に「免疫生物学」を半期3年間解説した。しかし、「がん」の研究までに至っていない。

次に、「今、何を課題として、どのような歩みを続けるか」に思いを巡らしたい。竹岡に小宅(弧翠庵)を構えたのもこの問いに直面しているためでもある。明治の初め、私の古里(海良村)で塾(含翠舎)を開いて村の子弟の男子には漢詩、女子には和歌の稽古を53年に亘って続けた村そんふう夫子し 飯田隆政さん(曽祖父母の第4女富子さんの夫。浦賀奉行所の用人役)のこと。その舎弟:神子朝太郎さん(A大学の教授)の天羽英学塾(含翠軒)のこと。竹岡初代村長の鈴木6郎衛門さんの子息・鈴木1さん:第1高等学校在学中に内村鑑3さんを知り、竹岡村に招いたこと。内村さんの1夏の逗留が機縁になり天羽基督教会が創立( 1892年) され、鈴木村長をはじめ近村の農家の方々が基督者になったという。そ子孫がどのように信仰の生涯を送られたのか知りたい。転じて、127年に亘る「農村と基督教」を検証し、地方にキリスト教が根付く社会的・文化的環境をどうしたら育てることが可能か。今年(1月6日)になり、鈴木一さん(R大学の教授)のお孫さんに電話をかけた。4世代100年以上過ぎて、もはや温ねる手立てが殆どない。(私は)時を逸してしまったのか。否、127年に亘る事実によって「問題の所在」が明白になっていると期待している。昨年、12月24日、六郎衛門さん所縁の方に墓所まで案内していただいた。その方の墓誌に刻まれた2つの十字架:祖父母の姓と名。山に向かいて右手には、六郎衛門さんとその子孫の墓石:その中に幼子愛作さん。十字架とこの人たちの姓と名は永遠にこの地に真理(基督)を知る縁になることを祈る。今でも古習を容易に推測できる竹岡の村民・基督者らの120余年に亘る己が自の生涯を温ね、新しい100年へと希望を繋ぎたい。

出典:天達文子「十字架にすがる幼兒」回想の内村鑑3・鈴木敏郎編270頁―280頁(岩波書店)