日野原重明先生の葬送・告別式における ケビン・シバー司祭の説教を知って 松岡 順之介

Ⅰ はじめに

私の生涯にもっとも影響を受けた先輩のおひとりである日野原重明先生のお葬儀には出席できませんでしたが先生を通して与えられた、親しい友を通して、また次女、井手裕子の聖路加看護大学の同窓会の記録によってその詳細を知ることが出来ました。とくにそこで行われたケビン・シバー司祭の説教を通して「福音」とは何かを再び新しく知って感銘を受けました。それは〝イエス・キリストの「福音」〟についての分かり易い実例をあげての説明でした。キリスト者の葬儀はその故人のためでなくそれによって神の栄光が現れるためのものであります。日野原先生の御葬儀はまさしくそれでありました。

〝イエス・キリストの福音〟とはなにか。それを私たちは御在世中の日野原先生において具体的に(身体的に)目で見、耳で聞き、心で感じ「福音」(よき知らせ)と受け取りました。しかし世間的(我が国の社会)には先生ご自身の〝賢徳〟と受け取られており、個人的なそのご逝去が惜しまれこそすれ、それ以上のことは考察されていないのではないでしょうか。日野原先生の御葬儀はまさしく個人的なものではなく神の栄光とその独り子イエス・キリストの愛を社会に明らかにする「福音」そのものでありました。先生と親しかった福井次矢聖路加国際病院長、紀伊国献三笹川記念財団最高顧問の日野原先生の御業績を讃える言葉に続くそこで語られた聖路加国際大学キリスト教センター主任チャプレン、ケビン・シバー司祭の説教を紹介します。

Ⅱ ケビン・シバー司祭の説教の概略

先生の功績は夕方まで語っても尽くせない。しかし其の功績は先生が天国で永遠の命を楽しめるという希望とは全く関係がない。人間で自分の業で天国に入る資格を勝ち取った人は一人もいないのです。と前置きして話されたのはヨーロッパの歴史的名家、ハンガリー・オーストリア帝国の主、ハプスブルグ家の最後の主、帝位にあったのは二年でしたがその後も第二次大戦時に多くのユダヤ人を救い、戦後はユーロ創立の立役者であった故オットー・ヴォン・ハプスブルグ氏の納骨堂への入室祈願の問答の伝統的儀式でした。

オットー・ヴォン・ハプスブルグ氏(1912. 11. 20.―2011. 7. 4.)のお棺を持つ使者が伝統あるカプチーナ修道院の納骨堂の扉を銀の槌で「トン・トン・トン」と三度たたくと、中から神父の声がします。「ここを通らんとする者は誰だ。」使者は「オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇太子、ハンガリー・ボヘミア、ダルマラ、クロアチア、スラヴォニア……トスカーナおよびクラカオ大公」と言って星の数ほどの所有地称号が並べられます。しかし終わると、修道士は答えます。「その者は知らない。」

使者はもう一度扉を叩きます。「トン・トン・トン」神父は再び聞きます。「ここを通らんとする者はだれか」「EUの議長、国際名誉会長、議員、老議員……」。それでも神父は「その者は知らない。」そうしてもう一度、使者が「トン・トン・トン」と扉を叩いて「主の憐れみを必要としているオットーです」と言った時扉が開かれ棺は中に入れるというのです。(※1)

司祭は言われました。「オットー・ヴォン・ハプスブルグも日野原重明先生も、私も皆さまも条件は一緒です。天国の門を通らせて貰える唯一の資格は、へりくだって自分が神の憐れみを必要としている罪人であることを認めることです。天国で認められる肩書は〝赦された罪人〟 しかありません」と。聖書は言います。「私たちがまだ罪人であった時、イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ロマ五8)。

日野原先生はこの福音、この良き知らせを子供の時からよくご存知でした。この福音は先生の大きな力になりました。先生が成し遂げられた功績はすべてこの神様の憐れみへのお返しでした。イエス・キリストのおかげで自分の罪が赦されその創造主である神様と仲直りができたという福音から先生は力を得てよろこびと感謝をもってこの偉大な恵みにこたえようとなさったのです。

よど号ハイジャック事件の時に先生は一段とこういうことにお気づきになったとおっしゃいます。神様は改めて赦して命を与えてくださったという強い感覚を抱えて残された命をもって社会、人々に仕える決心をなさったようです。(※2)

今日わたしたちは確信を持って日野原重明先生を天国にお送りできるのは神様の憐れみが確かなものだからです。日野原先生はその憐れみを必要としている罪人であることを喜んで認め「赦された罪人」の立場からずっと立派に生きてこられたのです。(※3)

日野原重明先生に尊敬の念を御持ちの方は、先生の恩師であり、先生の救い主であるイエス・キリストにも尊敬の念を持つべきだと思います。最終的には日野原先生の長い、功績に富んだ生涯とイエス・キリストの愛と憐れみとは分けて考えられません。(※4)

Ⅲ 注と考察

※1 KleineZeitung 新聞2011/07/16 “Zum Adieu daserhalte6″※2 此の事は多くの人が記しています。先生自身も述べられています。特に事件後の挨拶状に静子奥さまがこれを一筆されたことに、先生自身が感心されているようです。しかし事件の経験者すべてが日野原先生の様に感じたわけではありません。その経験以前に先生に信仰があったから此の事件をこのように理解されたのです。特に、閉じ込められた時にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』中の聖書の言葉「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。」(ヨハ一二24 )を読まれたことは注目されねばならならないと思います。※3 ここに日野原先生の偉大な社会的お働きの原動力が示されています。先生を動かしたのは先生の決意や努力ではなく神の愛への応答でした。先生のお働きには無理や苦痛がありません。先生は苦労努力した偉人といったタイプの方ではありませんでした。日々楽しく、正に(ルッターの)〝キリスト者の自由〟でした。福音(喜ばしい知らせ)を心身で感じておられたからです。※4 日野原先生の〝心の医の師〟は戦後占領軍軍医から贈られた〝Aquemitaus( 平静のこころ) 〟の著者、アメリカ否現在の全世界の医学の開拓者Sir. Dr. William Osler (1849-1919)です。しかし彼も牧師の息子でした。幼時から聖書でイエス・キリストを知っていた人でした。「医療は取引でもビジネスでもありません。そこでは脳と同じように心が働く神に命ぜられた使命です。」と言われました。最初トロント大学の神学部に入学し、感じて医学部に転向したSir.Dr. William Osler を医学の分野で駆り立てたのもイエス・キリストの十字架の愛だったと思われます。私は、京都大学入学の年(一九四九年)、今は無き小さな医学部同窓会の図書室で『アメリカ医学の開拓者オスラー博士の生涯』という日本YMCA同盟発行の文庫本で現代世界医学の父、Dr. Sir. W. Osler(1849-1919)や、寄贈された著者のこの学校の先輩、日野原重明先生を知ったのと同じ時期に、北白川教会で奥田成孝先生の御紹介で入会したキリスト教共助会の先輩達が記した会の創始者故森明先生(1888-1925)の選集出版の日の記事を思い出します。「私たちはこの選集を前にして先生葬送の日を彷彿する。あの時の『キリストの愛が森君には迫っていた』(高倉徳太郎)という言葉が再び耳に響いてくる。あの時私たちは泣いた。みんな泣いた。それは別離の涙でなく、罪赦されて新しく生きる感謝の涙であった。」(森明選集より)

Ⅳ おわりに

日野原先生のご一生もまたキリストの愛に迫られてのご一生であったと思うのです。先生が小学生のとき暗誦してみんなの前で発表されたという幼い柔らかい頭に叩き込まれたパウロの言った「信仰と希望と愛はいつまでも残る。そのうち最も大なるものは愛である」(1コリ一三13)の人の愛でないイエス・キリストの十字架の愛(福音)は二千年後の今も、私たちにもパウロやルターやパスカルや森先生やDr.オスラーや日野原先生と同じように生きて迫って来ています。わたしたちは〝今以上に自己の感性を少しでも鋭く磨いて〟(日野原先生のお言葉)イエス・キリストの十字架の贖罪の恩愛を感じねばなりません。

補遺

一九九〇年頃でした。当時松本教会の牧師だった和田正先生から尋ねられました。「私の高校の同じクラスに日野原というのが居て確か医学部に行ったと思うのですがご存知ありませんか」と。

あの頃すでに、社会的に有名だった日野原先生の事を聴かれるとは、と内心驚きつつすべてをすてて霊的伝道一筋の〝さすがは和田先生らしいな〟と、深い感銘を受けました。

そうして学生時代、奥田成孝先生に伺った、和田先生は高校時代(旧制第三高等学校理科)信仰のことで悩み三年休学の後文科に転科、京都大学文学部に進まれたことを思い出しました。その高校理科の時、ご一緒だったのです。それぞれ違う分野で違ったあり方で、でもイエス・キリストの愛の証人としてその生涯を捧げられた共助会と医科連盟の両先輩が若い時、同じ教室で一緒に学ばれた同級生であったことを知って(摂理を思い)本当に感謝です。