【応答3】何が人を「人格」にするのか 飯島 信

(以下の文章は、シンポジウムでの私の応答そのものではありません。用意した原稿をもとに、応答した内容から一部を削除し、加筆・修正したものです。)

午前中、4人の方による発題に深く心を打たれながら、発題者の皆さんと私との間で、教師として立つ位置の違いをも感じました。そのことから応答を始めたいと思います。そのために、31年間の公立中学校での生活、25 年間は社会科教師として、最後の6年間は特別支援学級(知的障がい担当)教師としてですが、その中で私が経験したことをお話しします。

F男という卒業生がいます。在学中、本当に荒れていました。タバコ、酒、シンナーは勿論のこと、悪いことはすべてやったほどでした。その彼が、結婚して、新しい新居に私を呼んでくれました。その時に彼が話してくれたことです。

「先生、いつか夜遅く、先生に電話をかけたことがあったよね。」

ある時、ほとんど午前0時近く、電話が鳴りました。出るとF男からでした。懐かしく、「元気か? 今、何をしている? 仕事の方は大丈夫か?」などと、ありふれた言葉を交わし、しばらくして電話を切りました。私は、その時は、F男はただ私が懐かしくなり、それで電話をかけて来たのだと思っていました。しかし、実は、あの時の電話は、F男にとって深刻な内容を持っていたことを知らされたのです。

「先生、俺、あの時、テレビの覚醒剤についてのコマーシャル『覚醒剤止めますか、それとも人間止めますか?』を見ていて、思わず覚醒剤を思い出し、もう一度手を出そうとしたんだよ。その時、先生を思い出して、これではいけないと思い、気を紛らわそうとして電話をかけたんだよ。話している内に気持が落ち着いた。」

そうだったのかと、私はあの時の電話の意味を初めて知りました。そして、覚醒剤に再び手を出す前に、私を思い出してくれたことに心から良かったと思いました。F男は続けます。

「あのコマーシャルだけどさ、クスリをやったことのないもんには意味があるかもしんないけど、一度やった俺たちには駄目だよな、もう一度やりたくなるんだよ。」

この時、F男をして、自制させた力は何かと思うのです。なぜ気を紛らわそうとして、真夜中近く私に電話をかけて来たのか。あの状況の中で、なぜ、友だちではなく私であったのか。ここに、今日のテーマである「何が人を『人格』にするのか」に対する一つの答えがあると思います。それは、自分を愛おしく思い、そのままに受け入れてくれる信頼出来る他者の存在です。

もう一つの経験です。

特別支援学級の授業に「買い物学習」がありました。近くのスーパーで生徒一人ひとりにお金を渡して買い物を経験する時間です。ある時、生徒を連れて行き、開店を待っていました。10時になり、扉が開き、私たちは並んで店の中に入りました。店員さんたちはレジの前に立ち、私たちに一斉に挨拶をしてくれました。その時です。私は生まれて初めて、凍りつくような冷たい視線を浴びるのを感じました。生徒たちは何らかの障がいのある事は一目で分かります。そして、生徒たちを引率している私たちは、店員さんにとって生徒と同じ障がいを持つ者なのです。その私たちを見つめる眼差しの冷たさ……。初めてでした。

私は、自分がそれまで差別について語って来た「真っ当」だと思っていた自分の言葉が、いかに浅薄であったかも知らされて行きます。それは、次の経験によってもです。

月曜日の朝は、全校朝礼が体育館で行われます。生徒達は並び終わると、起立の号令が出るまで全員座って始まるのを待ちます。その時です、静まり返った中で、私たちのクラスのN君が突然立ち上がり、奇声を挙げました。私は、初めのうちは、彼を見る通常学級の生徒の迷惑そうな眼差しに対し、彼らに注意を促していたのですが、しかし、時が経ち、N君の行動が度重なった時、気が付くと、通常学級の生徒に「うるさくて、ごめんね」と謝っている自分がいたのです。はっとしました。そして、この時初めて、周囲に謝って回る障がい児を持つ親の気持が理解出来たように思いました。もちろん、親たちはそこで止とどまってはいません。

そこから出発しつつも、差別の厚い壁に立ち向かい、差別する側の問題を指摘して取り組み続けています。私が特別支援学級で経験したことは、差別をされるとは何かを知る始めの一歩でしかありませんでしたが、頭で考えた理屈では通らない現実を身をもって知らされる出来事でした。

こうした中で、私にとっての生徒とは、いつしか教師と生徒、即ち教える者と教えられる者という関係から、互いに人生を生きて行く同労者と思えるようになりました。教室で向き合っている関係ではなく、人生という道を並んで歩いている仲間なのです。わずか13年から15年にして、私が歩んで来た人生とは比べものにならないほどの過酷な現実を生きている生徒たちと出会う中から、私にとっての彼らは人生の同労者となったのです。ここにも「何が人を『人格』にするのか」に対する答えを見出せると思います。それは、人生を共に歩む同労者の存在です。

自分をあるがままに受け入れ、そして、振り向けばいつも見出すことの出来る同労者の存在、それこそが人格を形成する土台を築くのだと思います。その土台の上に、さらに何が必要かと言えば、私は、他者との出会いの中で知らされる宝のような人間性だと思います。そのような人間性と出会い、癒され、慰められた時、人は自己の中にそれに呼応する魂の存在に気付くのだと思います。そして、その魂の存在が核となって、出会いの中で自己の精神が形成され、人格へ至るのだと思います。

人格とは、何か特別の人の中に宿るものとは思いません。誰の中にも、どのような境遇の人の中にも、人格を形成する核は等しく備えられています。そして、その核が芽吹く時、それは繰り返しますが、他者との出会いの中で、宝のような人間性と出会えた時です。その出会いによって、命が与えられ、核が精神を形成し始めて行くのだと思います。宝のような人間性とは、自分を癒やし、慰め、励まし、生きる意欲と希望を与える力です。別の表現で言えば、自己への破れ、即ち自分にない優れたものを私に示してくれる存在とも言えると思います。それに出会った時、その人の、人としての最も優れた部分に向き合うことが許され、私たちは心が満たされるのを覚えるのです。

私の31年間の教員生活を支えて来た言葉があります。1972年に発行された小冊子、梅根悟編の教育制度検討委員会報告『日本の教育はどう改めるべきか』の中の1節です。

「教育とは、生きた命に直面し、その生きる意欲と力を揺さぶり、燃え立たせるための真剣なたたかいでなければならない。どんなに小さな差別にも人間としての怒りを共感し、どんなにささやかにみえる発達でも、それを人間の無限の発達の可能性へのあかしとしてそれに感動し、その子の発達を権利として保障していく教育をうちたてねばならない。」

私は、この言葉に支えられ、教育の現場に立ち続けて来ました。最後に、発題をしてくださったお一人おひとりに対して応答します。私の理解は、あるいは誤っていたり、不十分であるとも思いますが、お許しください。

安積先生の発題についてです。安積先生からは、改めて、私が他者と向き合う時、興味というレベルで向き合っているのか、関心というレベルで向き合っているのかが問われ、考えさせられました。

新江先生の発題についてです。キリスト教教育は、現実の闇のただ中にあって耐え続け、なお光を求めて生きるところに成り立つことを示されたように思いました。そしてそのことは、三島先生が発題の中で言われた「他者が自分の中に存在し始めた時、人格の形成が始まる」という言葉と響き合っているように思いました。闇とは、他者を受け入れることの出来ない己の現実です。しかし、その他者を受け入れた時、他者と自分との間で人格的な出会いが生まれる。その出会いを求めることが光を求めて生きる事ではないか。お二人の発題からそのように思いました。

鈴木先生の発題についてです。お話しの中で、幼かった時に、勇気づけてくださった牧師先生のことが心に残りました。自分が受け入れられ、大切にされた時に、その人の中で人格の形成が始まると思うからです。

以上、私の感じたままを申し上げました。終わります。(日本基督教団 立川教会牧師)