【応答1】何が人を「人格」にするのか  荒川 朋子

4名の方の発題を聞いて、私は己の弱さを受け入れ、限界を知ることがどれほど重要かということを共通に感じました。

私はアジア学院で働く前に、日本の学校で3年間、教師として教えた経験を持ちますが、アジア学院に来たばかりの頃、ある職員から言われたひと言が忘れられませんでした。その人は、「過去に先生をやっていた人って、何か共通点があるよね」と言い、なぜか私はそれを肯定的には取ることができませんでした。その人の「先生」という何か型にはまったイメージに私が入れられてしまっていて、きちんと自分を見てもらえていないような悔しい思いがし、これからは過去に先生だったと思われないようにしようと思った覚えがあります。そして、今日皆さんのお話を聞いていてそのことを思い出し、「先生」という呼び名が、教師自身を何か型にはめ込んで、締め付けているとも言えるのではないかと思いました。「先生」という呼び方がすでに(先に生まれた者と書きますから当然ですが)上から目線で、教師は生徒よりもよく知っていて、優れていなければならない者として生徒との絶対的な位置を決められてしまっている気がするのです。そして教師自身が(己の弱さを受け入れることを含む)自分自身に素直に向き合う機会を逸してしまっている、安積先生、新江先生のおっしゃっておられた「人格」と「人格」の出会いということをそもそも妨げてしまっているのではないか、だからいっそ「先生」という呼び方を学校ではやめてみてはどうか、とも思いました。

実はアジア学院では「先生」という呼び方をしないで、教師や職員はスタッフ、学生はパティシパントと呼んでいます。パティシパントとは、英語で参加者という意味です。スタッフは教育現場、環境を整える責任を担う意味でそう呼んでいます。アジア学院の学生は、年齢が原則25歳~45歳と、中にはスタッフよりずっと年のいった学生が来ることがあるので、先生、生徒という呼び方が最初からぴったりこなかったのかもしれませんが、世界の農村地域で様々な経験を踏んできた学生たちは、「スタッフと一緒に教育の場をつくる人たち」、「すべてのプロセスにコミットする、参加する人」として、意識的にパティシパントと呼んでいます。

私は最初この呼び方に出会った時、とても居心地が良かったのを覚えています。これこそが教育現場であるべき人間と人間の関係だ、とすら思いました。不思議なもので、この呼び名一つで、普段、学校現場で見られるような「先生」と「生徒」の上下関係はなくなります。ですから、日本の教育現場では、先生も生徒も自分の役割を簡単に型にはめてしまわないで、共に教育環境作りに参加して、一緒に作り上げていく同士であることがもっと強調されたらいいのではないかと思いました。

次に感じたことは、アジア学院では、愛真高校や独立学園と同様に農作業をたくさんしていまして、このことが「人格」と「人格」の出会いの場を可能にするうえでとても有利に働くと思った点です。アジア学院ではどんな立派な肩書きを持っていても、どの国から来た人であっても、土の上ではみな等しく、ひとりの素のままの人間として謙虚に労します。また自然の中で、自然を創られた神様と素直に向き合うことができます。こういう作業が毎日1、2時間あります。これを毎日続けていくと、余分なものがそぎ落とされた素の人間同士の平等な関係がだんだん築かれていきます。そういう意味で、アジア学院や愛真高校、また独立学園など農に根差した教育現場を持つ学校は、「人格」と「人格」が出会うには恵まれた環境をもつのではないかと思います。

私自身の弱さをさらけ出すことによって大きな変化を感じた最近の経験をお話ししたいと思います。アジア学院は今年14か国から22名の学生がいるのですが、この22人と非常に密度の濃い対話の時間をもちました。一対一の閉じられた空間でではなく、全員がざっくりと輪になって座って、一人5分の持ち時間で、皆の前で校長である私に何でも好きに質問していいと言いました。これは私がアジア学院に勤めてからの24年間で、また校長になって5年間で初めてのことでした。学生たちは事前に真剣に質問を準備し、私の内面をどこまでも探るように、「この問題についてあなたはどう思うのか」、「こういうことが起きた時、あなたはどう対処するか」など、たくさんの質問をしてきました。これらひとつひとつの質問に対し、私は逃げも隠れもせず、できるだけ真摯に答えるように努力しました。そうしますと、否が応でも自分の弱さ、もろさをさらけ出さなければなりません。しかし、ある理由から、そうすることが必要だと思って決めたことなので、勇気を出して覚悟をもってそうしました。そして2時間ぶっ通しでこのセッションを行うと、その後、もう立ち上がれないのではないかと思うくらい疲労困憊しましたが、その場に流れる空気がとても違っているのを感じました。

そしてこの体験を、9月にアジア学院で「尊厳」をテーマにしたワークショップを行ってくださったアメリカ人宣教師に話したところ、「それはよくやった。拍手を送ります。」ととても評価してくださいました。その宣教師はワークショップで、「尊厳」とは「すべてのものが持つ平等の価値と弱さ、もろさを認めて受け入れることからくる、内面の平安」という、あるアメリカ人精神科医の定義を紹介してくれていました。彼は、さらに「尊厳」に根差したリーダーシップを発揮するためにすべきこととして、「人が安心して、傷付きやすい自分を出せる場を作り出せること」を挙げていました。その意味において、私の行ったアジア学院の学生との対話は、まず私自身が自分の弱さ、もろさをさらけ出し、そのことによって学生たちも安心してそうできる場を作り出したと評価してくれたのでした。

今の学生とは4月から7か月間一緒に過ごしていますが、その対話のセッションの後、全く新しい関係が生まれたと感じています。「リーダーは自ら進んで人が弱さを出してもいいと思える空気を生み出す必要があり」、その空気を生み出すための前段階として、「リーダー自らがフィードバックを受け止める」覚悟と、その後に実際にそれを本当に受け止めて応答していくことが必要です。そういったことが現実の学校現場でどれほどできているのか、実際できるのかわかりませんが、もしできるのであるならば教師と生徒の関係は変わるのではないかと思います。

自分の弱さやもろさをさらけ出すことは「ダメ」なことではありません。しかし、教師が、そんなことでは教師としての資質をマイナスに評価されると挑戦を恐れているとしたら、どうしたら恐れないでいられるのか、とも考えました。そしてそのことに関して、(日本聾話学校の)鈴

木先生のお話を聞いていて、たとえ障がいを持っていても、小さな子供であっても、人には誰に対しても対等に向き合い、響き合うことのできる「人格」があると強く思いましたし、共に成長し合える尊厳ある存在であると確信しました。鈴木先生は「言葉はいらなかった」という体験をお話しされました。私も同じような体験があります。英語を共通語とするアジア学院で、英語が不得意な人とのコミュニケーションをしようとする時、言葉がかえって邪魔になることを感じる時があります。英語ができない人は一生懸命に伝えたいことを、より一層強い想いをもってあの手この手で伝えようと努力します。そしてそれを受け取る側も、それらをひとつも漏らすまいとして一生懸命にそれを受け止めようと努めます。鈴木先生のおっしゃる「相手の心の想いを聴く力」が発揮されます。文法的には間違っていても、自分の心にぴったりの「ことば」を模索し、それが最もよく伝わることも実体験としてあります。ところが、共通語である英語でコミュニケーションがとれる場合、よく聞きもしないで、聞いた気になる、理解した気になっていることがよくあります。言葉を介したがために、逆に誤解が生まれることがあるのです。言葉によらないでも、私たちは「想い」(あるいは「人格」)を伝え、聴く、理解することはできる、神様はそういう力を育んでくださると信じています。

最後に、安積先生のおっしゃっていたある生徒さんの「私たち、みんななんとなく孤独で不安なんです」という言葉を聞いて感じたことについての感想を述べます。私は、やはり人には心を安心してさらけ出せる、互いの尊厳を認め合う仲間が必要で、そのためにはコミュニティが必要だと思っています。私は日本のキリスト教の学校には、共感し支え合うことのできるコミュニティを意識的に作ろうとする土壌があると思っています。そしてその意味で、キリスト教学校の存在意義はとても大きいと心から思っています。(アジア学院校長)