【発題4】想いと、ことばと、行いと 鈴木 実

日本聾話(ろうわ)学校は、聴覚に障がいがある子どもたちの学校で、聾話という学校名がこの学校の特徴をよく表しているのですが、残されている聴力を最大限に活用して、聴覚障がいの子が聴いて話す教育をしています。ただし、聞いて話せるようにさせるための、聞こえの訓練やことばの発音等の指導は一切行っていません。どうしているかというと、一人を大切にする愛情豊かな人間関係を育むことで、互いが知りたい、聴きたい、伝えたい想いを膨らませながら、日常生活を積み重ねることをしているのです。最新の医療と科学の助けをいただいてのことではありますが、日本の聴覚障がい児教育では唯一の学校で、画期的なことなのです。

私は、今年で38年目になりますが、初年度は一年間の研修を受け、その後、幼稚部教員2年、小学部教員を18年、それから、乳幼児部(ライシャワ・クレーマ学園)教員8年を経て、教頭を2年、そして、今は校長7年目となっています。

今日は、私が日本聾話学校で経験させていただいたことを基に、主題に沿いつつ教育の持つ可能性についてお話をさせていただきます。

 

1、私のできごと

 

学校で、いつも無邪気に屈託なく遊ぶ子どもたちを見ていて、この頃に戻れたら楽しいだろうなとよく思うのですが、実は、小さく幼い子どもでも、さまざまな想いを持ってその時その時を過ごしていて、その中での人との触れ合いや、心の交感を通して、自分というものを自覚したり、他者との関わりを意識したりして、自分らしさというものを育てているのです。

幼児期から思春期にかけての私にとっての忘れられないいくつかのことばがあります。そのどのことばにも、私を今の私にした人との出会いがあり、その人の想いを感じた瞬間がよみがえるのです。良いことばかりではなく、傷ついた経験も含めてなのですが、そのできごとが私を今の私にしているのは間違いないのです。一つ紹介しますね。

「お母さん、みのるちゃんのために明日の遠足にいらっしゃい」という、このことばは、私が教会附属の幼稚園に通っていた年長の時に、教会の牧師先生が私の母に話してくれたことばです。私は4人兄弟の2番目でして、ひとつ上の姉と4つ下に双子の弟がいます。母は、小児喘息のために病弱な姉の看病と双子の赤ちゃんの育児で手いっぱいで、私をかまう余裕など全くなかった時の話です。今の交通事情では考えられないことでしょうが、まだ幼児である私が独りで、自宅のある千歳船橋から教会のある梅ヶ丘まで、毎日、小田急線の電車に乗って通っていました。そんな中で、明日は遠足という日の夜に、教会の牧師先生が我が家にやってきて、先ほどの話を私の母にしたのです。牧師先生が何をしに来たのか全く知らないままに私は寝てしまったのですが、翌日、母は一緒に遠足に行ってくれました。そんなこと期待していなかった私は、嬉しくてうれしくて遠足ではしゃぎまわったのをよく覚えています。まだ小学校に入る前の幼児だった私でしたが、何となく察していました。子どもってすごいですね。ちゃんとわかっちゃうんですね。私のために特別に想いを寄せてくれた人がいる。それを何よりも大切なことだと最優先にしてくれた母や父がいるというのは、それまでの不都合なこと全てを一瞬にして吹き飛ばしてくれました。この体験は今も私を勇気づけてくれています。

 

2、教師としての出会いから―日本聾話学校での経験から―

 

教師としての経験から、忘れられない2つのできごとがありました。まず、ある男の子の話をいたします。この子は私が日本聾話学校ではじめて担任をした子どものひとりで、その時は幼稚部年少の3歳でした。100デシベルの音にも反応しないような最重度の聴覚障がいで、ことばはまだ話せなかったのですが、乗り物や動物が大好きで、ことばにならないことばで一生懸命に想いを訴えてくる子でした。人懐こくて、興味関心をもって関わりを求めてくる子ですから、ことばはそれなりに育ってくるはずなのですが、なかなかそうならなかったのです。実は、この子のことばが身につかないのには、ある事情がありました。お母さんに病気があって、日々の生活もままならず、お父さんがとにかく学校には連れてくるという、それがやっとだったのです。まだ小学生だったお姉ちゃんが自分にできるぎりぎりのお世話をしてくれますが、家庭では補聴器の管理はほとんど何もできず、食べることだけは何とかやっていました。私も、担任として何かをしてあげようと必死でした。その後、その子が小学校3年生と4年生でも私が再び担任になったのですが、家庭状況は相変わらずで、担任としては自分の生活を自分のこととしてしっかりとできるように指導したり、その中でことばが育ち、学習も前に進めていけるようにと、その都度の課題をもって関わるなど、私が彼にとって必要だと思うことを彼に求めながらの毎日でした。でも、家庭状況は崩壊寸前で、学校ではトラブルの連続でした。その子とすれば思うに任せないその状況の中でもがき苦しんでいたのです。

トラブルを起こしたその子と2人だけで向かい合って、注意をしていた時の事です。私の顔を見ることも、目を合わすこともできないまま下を向いていた彼が、突然私の顔に唾を吐きかけてきました。私は何が起こったのかと思う間もなく、次の瞬間にその子がしがみつくように私に抱きついてきました。私の胸に張り付くようにして離れないのです。私は心が震えるような感覚になり、その時、この子に本当に必要だったことがはじめてわかりました。自分の苦しみをわかってほしい。何もしなくていいから、そのことだけを受け止めてほしい。それはそういう想いが込められたメッセージでした。ことばはいりませんでした。沈黙のまましばらく抱きとめるだけでした。その後、彼はとてもいい表情で仲間との生活に入って行きました。私の求めがどれだけ彼を苦しめていたのかを突き付けられ、教育としての本質はどこにあるのかを教えられた、強烈なできごとでした。

次に、私が乳幼児の担当をしていた時に出会った、あるお母さんの想いを紹介いたします。

お子さんが乳幼児の2歳になってから入学してきたのですが、体の成長もゆっくりでその時はまだ自分で立ち上がって歩くこともできませんでした。聴いてお話ができるようにとの願いが強くあって、人工内耳の手術を受けたのですが調整が上手くいかず、十分な音を届けてあげられませんでした。お母さんは我が子の体の発達の遅れへの不安もあり、聴覚の活用にも希望が見えないままの状態で悩みを抱えていました。人工内耳のことは医療に任せるしかなかったので、私はとにかく子育てのことをしっかりとお伝えしようと、あれやこれやと必死になってアドバイスをしていた時です。「先生にはできても、私にはできないんです」と、突然お母さんが大きな声で私に訴えてきました。よほど苦しかったのでしょう。それは食事の場だったのですが、回りにだれがいるかなんかもお構いなしの必死の訴えでした。その時私は何を話してあげたらいいのかことばを失ってしまいました。

食事が終わった直後に、その場にいた1人の若い教師が私に声をかけてくれたことで救われたのですが、日本聾話学校の教育を可能にしているのは「親子の愛」なのです。そして、親子の愛情が土台となるこの教育は、いのちを感謝することから始まります。耳に障がいがあるなしは関係なく、子育てが上手くできる、できないでもない、ただ、互いのいのちを愛いとおしむ心があれば、それでいいのです。愛されることでいのちを輝かせる子どもが、こうあらねばという呪縛から私たち大人を解放してくれます。そして、「この子が生まれて本当によかった」というその親の実感が、子どもの心と耳とを自由に、そして、大きく開いていきます。何よりも温かな親の愛情こそが、子ども自らが伸びようとする内なる力を豊かにします。親子が親子として共に育つにはいのちを響かせ合うそんな生活の営みそのものが大切であり、喜んだり驚いたりするこころの通い合いこそが子どもの人間性を培い、共感に根ざした本当の聴く力、すなわち相手の心の想いを聴く力を育むのです。

ですから、教員の役割は、ただただ子育てをするお父さんとお母さんを支え励ますことで、親の不安や悩みそのものが、また、時として怒りとして表すしかないような苦しみが、親の愛情の証しであることを忘れてはならないのです。私たちをそこに立ち戻らせてくれるのが祈りなのです。祈りこそがいのちを育む愛の泉となり、祈りがあるから独りよがりにならずに目の前のいのちを愛おしみ、希望を持って前に進んでいけるというのが実感です。

 

3、出会いと交わりを通してこそ―命を見つめる歩みを―

 

最後に、日本聾話学校の中学部を卒業していった生徒の姿を、その生徒の言葉から紹介させてください。実は、中学卒業までには半分以上の子どもたちがインテグレイトして一般の普通の小学校や中学校へ進んで行く中で、この生徒たちは赤ちゃんから15歳までの聴覚主導の人間教育を一貫して受けた生徒たちです。

「落ちついて、ゆっくり歩いて行こう」

これは入試を控えた中学3年生のある女の子の書き初めの言葉です。自分の人生は、誰でも自分の足で踏みださなければなりません。心配だからと、他の人に代わってもらうわけにはいきません。おそらく、高校受験それから日本聾話学校を巣立つ卒業の日を目前に控え、期待と不安とが交錯する自分の心を見詰める中で自然と内から湧き出た言葉なのだと思います。生まれてから15歳の今まで、両親や家族に愛され、喜びを分かち合ってもらうことで希望を抱き、またある時は戸惑い躓くことで自信を失うなど、そんな繰り返しの中で大きくなってきました。でも、どんな時でも家族や仲間との出会いと交わりがあり、いのちそのものを見つめてもらい、支えられ、導かれてきたのです。この生徒は今までの自分を振り返り、両親や周りの人が自分にかけてくれた愛の心を感じて、心配はなくならないけどきっと大丈夫、これからもたくさんの苦労はあるかもしれない。でも、自分らしく生きればいい。だから、「私は、落ちついて、ゆっくり歩いて行こう」そう自分を信じる言葉が湧いて出たのだと思います。

教育の願いは、出来るできないの結果を求めるものではなく、一緒に生きる瞬間しゅんかんこそが貴く、そういう心の通い合う生活を通して、共感的な人間関係を築く中で互いの想いを汲み取ろうとする柔らかな心を育むことです。だからこそ出会う人への思いやりの心が育ち、「私はどう生きるか」と自分との対話をはじめるようになり、そして、受け入れがたい自分や、棄ててしまいたい自分の弱さや醜さに向き合い苦しみつつも、自分を信じ、そして、出会う人への信頼を寄せて歩みを前に進めていくようになるのです。ここに人間教育を願う本当の意味があります。

「日本聾話学校は私の宝物です」

このことばも、中学部を巣立ったある生徒のことばです。どの生徒も思春期を経ての涙と喜び、挫折と希望の物語があり、皆、その折々に、戸惑いつつも自分の心に正直でありたいともがいています。この生徒も、そんな日々の中で普通小学校での生活が難しくなり、日本聾話学校に戻ってきました。そして、友達や教職員との出会いと交わりの中で笑顔を取り戻し、そうなれたのは素の自分をさらけ出せる学校だったから……と実感して、日聾を旅立ったら、今度は自分が困っている人、辛い想いをしている人に寄りそって助ける人になりたいという願いを持ったのです。その背後には、ご両親の、わが子を信じて待つ深い愛情と、聴覚に障がいが与えられたからこそ豊かな育児経験を味わえて幸せだという心からの感謝の想いがあります。「日聾は私の宝物」とは、卒業生のそんな自分との対話から、それから、ご両親の愛情と感謝に包まれて、こう在らねばという縛りから自由にされる中より紡ぎ出されたことばなのです。

相手を想う心と、自分の生き方を大切にする想い。それが互いの心に届いた時、ことばに体温を与えて自分とその相手を豊かに活かすのだと思います。私は、それこそがことばの持つ豊かさだと思います。日本聾話学校の子どもたちはことばの数というよりも、心の在り様を感じる豊かな感性があって、心を伝える自分のことばを持っています。それは、幼いときから様々な想いをお母さんから、教師から、そして、友だちからも心の想いを聴いてもらって育ってきた故の姿です。だから、どの子も話すことばそのものがその子らしさを表しているのです。

昨今の科学技術の発展で人工知能の研究が進み、私たちの暮らしはますます便利になっていくことでしょう。しかし、その一方で、生活そのものが合理化、画一化されていく暮らしは、人との出会いを奪い、互いの心の温もりを見えにくくさせていきます。私たちの住むこの世界はそういう方向に進んでいて、人間関係が希薄になると互いの心がわからなくなり、小さな誤解が対立となり、対立が偏見と排除を生み出し、互いを分断させます。自分自身をも見失うことになり、実は、恐ろしいことなのです。

今日本の社会は、この国の人々の目は、どこを向いているのでしょうか。互いの心を見つめることをやめてしまった訳ではないと思うのですが、私たちは教育の営みを通して、小さくともかけがえのないいのちに眼差しを注ぎつつ、弱いからこそそこに与えられる豊かさがあることを届けたいのです。心を伝え合うことばを育むことが教育の使命であり、未来への希望だと思っています。

世界は不安定さを増して、何とも生きにくい時代となっています。息の詰まるような社会の中で、子どもたちが本当の自分を出せずに、偽りの仮面をつけて生きるしかないとしたら、それはとても不幸なことです。そんな社会の実情を想うと、どの子もどの親も実際には苦しみや不安だらけの日々であるのも間違いのないことなのですが、私には本校の子どもたちが自由に、また子育てをするお母さん方がとても輝いて見えます。教育には、不幸としか思えない現実を大きな恵みに変える力があり、私は「落ちついて、ゆっくり歩いて行こう」ということばと、そして、「日本聾話学校は私の宝物です」ということばに、教育の持つ未来への希望を感じるのです。

人は、人との出会いと交わりの中で、想いと、ことばと、そして、祈りを通して生まれる行いとを分かち合うことで、互いの心に響き合った自分らしさを実感することができて、たとえ、そこにいろいろな不都合があったとしても、それを希望や喜びと変えつつ歩んでいく人格を育てるのだと思います。私はそういう教育の持つ力を信じています。(日本聾話学校校長)