浅野順一と森 明 片柳 榮一

今回共助会百周年記念として、戦前版『共助』から先達のメッセージを汲み取るという作業に従事して、あらためて先達の歩みの貴重さを思わされたのですが、その中でも殊に印象深かったことが二つあります。その一つは、浅野順一の森 明に対する関わりです。もう一つは小塩 力という人の存在の大きさを知らされたことです。この後の方は何時か別の機会に語ることとして、今日は浅野順一と森 明の関わりについて、触れてみたいと思います。今日のこの席には牧野信次先生という浅野先生の高弟もおられ、私など生前の浅野先生をほとんど知らない者に語る資格はないのですが、少し感じたことを述べさせていただきます。

浅野は幼少の頃から親しく森家に出入りしていたようです。記憶違いでなければ、森が浅野の家庭教師的な役を引き受けていたと聞いています。浅野にとって森はいわば、年上の兄といった存在であったようです。百周年の企画で、選んだ10人ほどの森のお弟子さんのほとんどにとって、森は魂の導き手でした。その思い出を語る口調には、畏敬の念が込められています。しかし浅野が記すものは異色です。子弟関係というより、幼少から訓育を受けた親しい年長者に対して、遠慮のない、真剣で、またいわば「やんちゃ」な反抗の記録であると言えます。

浅野は、「書斎の先生」と題するエッセイにおいて森 明の書斎について語りながら、森 明の生の奥まったところを照らし出しています。浅野は初めて書斎に招かれた時を懐かしく想い起しています。その時、自分は子供らしい得意と満足を覚えたといいます。森は自らの書斎を初対面の人に見せるようなことはしなかったからです。 「先生の清く深く大きな友情は未見の友をも固く抱擁する不思議な力を持っていたが、同時に先生は何もかも最初から曝さらけ出すような無ぶ 様ざまな交友の態度はとらなかった」(戦前『共助』197頁)と言います。浅野自身、大分親しくせられてからようやく書斎に入ることが許されたから、得意げになったのです。書斎に入ることを許されたということで、いわば弟子として認められたと感じたのでしょう。

中学生として書斎に招き入れられた浅野が羨望の眼で見たのは、ぎっしり並べられた夥しい英書でした。自然科学、殊に生物学、哲学、神学、政治、法律、経済など文化の各方面に亘っていました。「先生の眼界は広くあったがその理解は決して浅薄に流れることはなかった。先生の直覚力の鋭さは問題の要点を的確に握り、よくその判断をあやまらなかった」(同23頁)といいます。森は病弱の故に学校教育を受けず、独学であったため、周囲に集まった大学生に「諸君は高等教育を受けて居られて羨ましい」と屡しばしば々語られたとのことですが、「独学者の持つ共通な痩我慢やひがみの如きものは先生には露ほどもなかった」(同23頁)といいます。

浅野は書斎にケーベルとベルグソンの肖像が架けてあったことを印象深く記しています。東大の哲学教師として赴任していたケーベルの人格と学風に森はいたく私淑していたようです。そして森が20世紀最大の哲学者ベルグソンの思想に深く傾倒していたことも知られています。魂と宇宙の神秘への直観を森はベルグソンの思想から養われていたことが森の文章の行間から窺えます(旧『著作集』187頁、及び322頁参照)。

畏敬と羨望の念をもって接していた浅野ですが、やがてこの兄貴分の森と衝突する時が来ます。その直接のきっかけは、処女降誕をめぐる理解にあったようです。森 明の理解は、浅野によれば「基督の処女降誕の如きも、単性生殖の生物学的現象と連関して、経験世界の事実としてありえないことではなく、否あって然るべきことと主張されていた」(戦前『共助』197頁)という如きものです。これに浅野は「つまづき倒れた」のです。何度もの手紙による批判の応酬のすえ、森 明からの「僕はつまらないからペンを置きます」との拒絶の言葉を受け、浅野は「甚だ失望して、教会関係、特に伝道講習会から辞したき旨を申し上げ」(同198頁)、二人の関係には亀裂が走り、翌年に森 明は逝去しています。

浅野の文章を読み返して、衝突の原因となるのは何かを改めて考えますと、或る基本的な姿勢の違いが見えてきます。森の神学あるいは宗教哲学的思想の根底には、「知信合一」の確信があったと浅野は振り返っています。「信仰の世界に於いて真理なることは、哲学・科学の世界に於いても亦真理でなければならない。例へば基督の神性についても、唯之を聖書に感ぜし者のみが承認し得る真理であるとすることに満足せられずして、いやしくも健全なる理性を持つ者は、何人と雖も承認しなければならぬ真理であると確信せられ、この確信を合理的に理解すべく苦心せられた」(同196〜197頁)。そしてこの思想は、浅野が自らのものとはなかなかなしえないと感じたものでもあった。

浅野の森宗教哲学のまとめは、「濤声に和して」の高倉への手紙の内容に照応しています。森は自らの課題を次のように語ります。「もちろん私たちは、神の恩寵によって引き出されたるキリストにおける客観的真理の確信に生きるものであることは言ふまでもないが、その因って来る理由を、学問の上に立証したいと思ふ。そしてそれが、文化意識の依る真理の自覚と、いかに交渉し相触発するであらうか」(旧『著作集』28頁)。キリスト者がこの問題に真剣に向き合わないために、世の理知的な人々は、キリスト教を愚昧な迷信として軽んじるか、キリスト教の本来の使信を曲げ修正しようとの動きさえすると、森は危惧しています。そして学徒たるキリスト者の課題を次のように記しています。「ユダヤ人のみならずギリシア人にも、宣べ伝うべき福音である。私たちの責任を、彼らの上にも負うべきはずである。そこで、思想界の現状に顧みて、必須欠くべからざる要点は、キリスト教の真理の宣言にあらずして、いかにしていなる理由の下に、それが真理ならねばならないであらうかという真理認識の方法論的立証である」(同29頁)。

これに対して浅野はいわば近代的な二元論的立場をとります。浅野が森に書き送った手紙の要約によれば、浅野は、(1)聖書の記事そのものの歴史的研究だけではキリストが神であるということは立証されない。(2)カント的立場をとり、神は理論理性では分からず、実践理性においてのみ理解されることである。(3)キリストを神として信じることは、人間の主観の要求であって客観的な事実とは無関係であり、キリスト教の絶対性という如きことは、科学的証明を受くべきことではない、と主張した。これに対して森は激昂したといいます。森の立場をまっこうから否定するものだからです。宗教的真理と科学的真理を素朴に一致させようとする、浅野の言葉でいえば、信仰合理主義に一見見えますが、森の理解はもう少し深いものであることを今度あらためて思わされました。

森は次のように力説します。「キリスト教に於いてはキリストの自意識に従って、人類が神を探究する間に、神自ら自己を表現しつつ、ついに歴史の存在者として己を顕現したのであるとするのである。人はこの歴史上の人格者となったナザレのイエスを知ることによって、古来より秘められたる神とその本性とを知るのみならず、彼において無限の愛とその犠牲が産出したる救いとを与えられ、永遠の生命に入ることができると確信している。このように考えてくると、キリスト教は人間の考えに終始するのではなく、客観的の真理、すなわち神自身の愛の表現を認容して初めて成り立つ宗教なのである。そこで、何故そのようなことを信じることができるのであろうかといえば、元来愛は本性上愛するものを自己に引き付けると共に愛する者へ自己を喜んで与えるものであるから、人間の文化が神を尋ねて、自然において、歴史において、人格に於いて表現しつつある神の真理を発見し、ますます近く神に接近せしめられつつある一方、神もまた自己を世界に表現してついに全く人類とはただ一つの地平線に立つに至ったのである。進化が神に向かうばかりでなく、これを促し創造しつつ、ついに自己を人類に与えうるものである」(旧『著作集』138―139頁)。森によれば、この宇宙自然がその進化において、だんだん神に近づいて行くだけでなく、むしろ神そのものが、この自然そして、その頂点としての人間に近づきつつあるのだといいます。森にとって神の本性は愛であるのですが、その愛とはまさに、この人間に近づこうと自らを制限し、へりくだることなのです。森の贖罪論とは、この神の人間への謙へりくだりの究極にある行為なのです。

「『神人となる』の義は、十字架の第一歩にして、吾人の最も困難なる問題たる罪悪の根本的解決なる「贖罪」の端緒と見るべきである」(旧『著作集』191頁)。

「私たちがこれまで考えてきたように、宇宙に無限の愛をもって私たちを祝福する神のあることを承認する以上は、神に対する罪が最も深い意味で成り立つのである。この意味において私たちの罪悪感は、その深奥なる自覚において常に対立的でなければならない。この宗教的な最も深刻な罪悪の自覚が、ついに私たちをキリスト教の中心真理とする十字架の「救済」の問題に至らしめるのであるが、これは後に述べることとして、ここに、神が人類の罪のために自ら悩み、ついに人間自ら回復し能わざる罪悪の救済を全うすべく、みずから罪の世界に肉体をもって実現したもうことを承認する。神は愛する人類に、自己を制限して与えたもうのであるが、さらにその苦悶に与えたもう一身同体、わが煩悶はいつしか彼の煩悶と化し、わが喜悦はまた真に彼自身の喜悦となる」(旧『著作集』151頁)。

浅野も次のように述べています。自らの森に対する反抗を苦い思いで回想しながらです。「先生は宗教でも神でも、生命進化の方面からときおこして居られる。そして人間の宗教的要求や自由意志の如きも、之を全的に認めて居られる。そこには一見信仰合理主義の如き言調がないでもない。然し乍ら先生が罪の問題に触れる時に人生の真相を如何に深刻に握って居られたか、而してそれ故にキリストの十字架こそ人間にとって唯一の救いの途なることに対して何者も動かすべからざる確信を抱いて居られたことが解かる。先生の基督論は実に、斯かかる贖罪観の上に立っているものであることは云うを待たない」(戦前『共助』196頁)。

浅野が森亡き今を語る次の文章は、当時の精神状況を垣間見せてくれる。「欧州大戦後世界の変動は激しい。その千波万波を敏感に感じる日本の思想界は先生逝去後特に変転きわまりない昨今の有様である。……今日の危機神学と之に深い関係を持つ存在論的な哲学とに対して先生は如何なる態度をとられたであらうか。現今の社会不安、共産主義やファシズムに対しては如何、特に満州問題をめぐる国際連盟の論争に対して先生の見解はどうであらうか」(戦前『共助』24頁)。こうした言葉のうちに私は浅野順一自身が、激しく変わりつつある思想の移り行きを経験していたことを感じます。私は浅野先生のお話を一度だけ確か京阪神の修養会が山科か大津であった時に聞いています。殆ど内容を覚えていないのですが、当時私が興味を覚えていたキルケゴールについて、最近キルケゴールのものを読んでみて(確か『愛の業』だったかと思います)、これまで少し異端的と思えていた見方が修正されたと言われていたことは鮮明に覚えています。今引用した文章の「今日の危機神学と之に深い関係を持つ存在論的哲学」と言われているのは、バルトとハイデガーのことですが、こうした実存主義的な思想の源流としてキルケゴールがあることは明らかです。浅野が「知信合一」という言葉で森 明の宗教哲学的思想を表現しましたが、まさにこうした極めておおらかな楽天的ともいえる一元論的な考えが、激しく揺さぶられ、その基にキルケゴールがあり、こうした思想が影響を与えることになる世代に属する浅野自身も、森の思想に少しなじめない感じをもっていたことが覗うかがえます。浅野自身の育った文化環境が崩壊しつつあることを浅野がその内部から感じ取っていたことが、「先生は如何なる態度をとられたであらうか」という文章には覗えます。

浅野は森の思想の深く独創的であることを見据え、これを自分たちが如何に担いうるかを手探りしています。「先生のもてる永遠的なるものは古い装よそおいの内にもられて居ったかも知れない、併し我々はその内に装はされたる先生の自身のものを把握し、先生若し今日在せば如何に思ひ、如何に考へたであらうかを追求して行けばよいのである。装は古いがその内の先生は今日も尚新しく我々に活きて働きかけている。貴いのはその装ではなく、不断に進歩してやまない先生その人ではあるまいか。同時に我々は先生に未完のままに遺し逝かれし部分を分担してうめて行かねばならぬ責任がある」(同24頁)。この言葉には浅野が森の生きざま全体から受け取った宝に対する責任の意識がよく覗えます。浅野青年自身が最初激しく反発したように森の思想には古い装いのうちにもられたといえるような部分があります。しかしその背後に浅野は或る「永遠的なもの」を汲み取っています。大事なのでもう一度引用します。「装は古いがその内の先生は今日も尚新しく我々に活きて働きかけている。貴いのはその装ではなく、不断に進歩してやまない先生その人ではあるまいか。同時に我々は先生に未完のままに遺し逝かれし部分を分担してうめて行かねばならぬ責任がある」。浅野のその後の歩みの全体はこの意識に貫かれたのであろうし、私たちも、その後を自分なりに「未完のままに遺し逝かれし部分を分担してうめて行かねばならぬ」のであろうと思います。これは重いですが、励ましと慰めのある責任であると思います。(聖学院大学客員教授、北白川教会員)