【韓日修練会 閉会礼拝】 「十字架につけられたキリスト」を伝えよう!鄭 元晋(チョンウォンジン)

(通訳 長尾有起)

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1:22—25)

まず、基督教共助会100周年を記念する日韓修養会の閉会礼拝で証しをさせていただくことは、個人的に非常に光栄なことです。私は現在ソウル第一(チェイル)教会の主任牧師をしている鄭元晋(チョン ウォンジン)です。私はソウル第一教会の6代目の主任牧師なのですが、2代目の主任牧師であった朴 炯圭(パクヒョンギュ)先生が共助会の会員だった縁でこの集まりに参加しており、また今日壇上にまで立つこととなりました。

韓国と日本は近くて遠い国です。両国が遠い理由は、日本の帝国主義による韓半島の強制占領の傷が、まだ完全に癒されていないためです。それにもかかわらず、両国のキリスト者たちは、この数十年間〈共助〉してきました。またこれからもずっと〈共助〉していくことを願っています。その土台には「キリスト教信仰」が据えられています。したがって過去を振り返り、未来を展望しながら、私は、私たちが共有してきたキリスト教信仰についてもう一度確認したいと思います。それが私たちの新しい出発の拠り所でなければならないからです。

本日の聖書箇所の23節において、使徒パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っています。パウロは単に「キリストを宣べ伝える」とは言いませんでした。「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と語りました。パウロにとって「十字架につけられた」(crucified)という言葉は非常に重要です。この言葉にパウロが伝えた福音が集約されています。実に十字架のない福音は福音ではなく、十字架のないキリスト教はキリスト教ではありません。

ところが、パウロにとってこれほど重要だった「キリストが十字架につけられたということ」が、当時のユダヤ人には「つまずかせるもの」、異邦人には「愚かなもの」だったとあります。なぜでしょうか。その理由は十字架が「ローマ帝国の処刑方法」だったからです。十字架刑はその処刑の方法が、公開であり、時間が長くかかり、非常な苦痛を伴うものでした。それは国家による拷問でありテロでした。それが与えるメッセージは「こんな目にあいたくないのなら、帝国の権威に挑戦するなどということはよくよく夢にも見るな!」ということでした。そうです。イエスはただ死んだのではありません。単に殺されたというのでもありません。イエスは、ローマ帝国の支配に挑戦し、抵抗したために、ローマ帝国の当局者によって十字架で処刑されたのです。

したがって、「十字架につけられたキリスト」を伝えることは、即ちイエスが反帝国的な人物であり、パウロの福音が反帝国的な福音であることを知らせることでした。これはパウロのもう一つの主要メッセージである、「イエス・キリストが主である」という宣言でも明らかです。この宣言は「イエスが(私たちの)主であり、ローマ皇帝カエサルは主ではない」という宣言です。この言葉は、皇帝には仕えないという言葉と同じことです。このように「十字架につけられたキリスト」は、キリスト教の福音の反帝国主義的な性格を明らかにします。キリスト教信仰はまさにここから出発したのです。

続く本文24節、25節で使徒パウロは「召された者には、〈神の力、神の鄭 元晋牧師知恵であるキリスト〉を宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」この言葉は「十字架につけられたキリストが神の力であり神の知恵であるが、人には弱く見え、愚かに見える。でも実はもっと強く、もっと賢いものだ」という意味です。

ここで、パウロが述べた「人の賢さ」と「人の強さ」は、いわゆる「ローマの平和(Pax Romana)」を指します。よくご存知のようにローマの平和は「安保」と直結します。ローマ帝国の皇帝シーザー(カエサル)は敵対者たちを戦争を通じて軍事的に「征服」し、その暴力的な勝利を通じて得た「安定」を平和と呼びました。つまり、力による絶対的な優位に基づく「戦争のない状態」、専制的な支配の結果として被支配者が反論すらできない「屈服した状態」がまさにローマが主張した平和でした。それ故、彼らは「平和を望むなら戦争を準備せよ」と雄弁をふるいました。彼らのいうところの「平和は力(power)の子孫」でした。力がなければ平和もないからです。平和は皮、外見でしかなく、その皮をむいた中身が力でした。

したがってローマの平和に追従する者は「力の崇拝者」にならざるを得ません。ところが実際、「力が最高」であるというのは人類の古くからの「信念」でした。いえ、それは、世俗の「宗教」であり「信仰」でした。人類は新石器革命以降、力のある者が、力のない者たちが生産した余よ 剰じょう生産物を奪って、独り占めし、そこから力を追求し崇拝してきました。その力とは、主に武力、つまり軍事力を意味しましたが、時代によって経済力、技術力、情報力どへと、その姿を異にする場合もありました。とにかく人類は今に至るまで「力」を崇拝し、信仰しています。「力が最高、一番だ。だから力を養い、力を持て。そうすれば相手との競争で勝利するだろう。そしてその勝利があなたに『平安』(peace)をもたらすだろう。」これが、個人と社会と国家のスローガン、価値、目標でした。

しかし、力では決して平和を実現することはできません。力を通じて成し遂げようとする平和は偽りの平和であり、虚しい妄想に過ぎません。人類の歴史がそれを明確に示しているではありませんか! 片方がもう片方を力で完全に制圧したり、双方の力が均衡している状態は「一時的」なものであって、決して「永久的」なものではありません。したがって、力による平和は長続きせず、すぐに壊れてしまいます。それで結局、力に力、暴力に暴力で対抗する、暴力の悪循環が繰り返されるだけです。

しかしイエス様は、力に力、暴力に暴力で対抗するのではない、全く違う道を示されました。それは悪を悪によって返すのではなく、善によって悪に勝つ道でした。暴力に非暴力で抵抗する道でした。一等になるのではなく、ビリになる道でした。高みを目指すのではなく、低くなる道でした。誰かに仕えられるのではなく、仕える道でした。それがまさにイエス・キリストが歩んだ道であり、十字架の道でした。そしてこれがローマの平和、Pax Romanaとは違うキリストの平和、Pax Christi でした。

キリストの平和は、様々な面でローマの平和とは相反するものです。キリストの平和は力を追求せず、愛と正義を追求します。人と敵対するのではなく、人を歓待します。武器や安保に基づかずに、犠牲と和解に基づきます。抱え込むよりは分け合い、のし上がるよりは低くなり、支配するよりも仕えて生きます。敵味方を分けることもせず、自分と他の人を差別することもありません。私の意思を一方的に相手に押しつけることもありません。むしろ相手に配慮し、尊重します。

このように、キリストの平和に従う者は、覇権主義、勝者の独占、弱肉強食など、世界の秩序や価値を拒みながら生きていきます。力(power)を追い求めて生きるのではありません。これが世の中の風潮、世の中の知恵に従って生きず、愚かなように見える神の知恵、無力に見える神の強さに従って生きる人生です。使徒パウロは十字架につけられたキリストにこのような生き方を見、この道が究極の平和と人類の救いをもたらしてくれると確信しました。ですから、本日の箇所のすぐ後の2章2節で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と力強く語ったのです。

私たちキリスト者は、まさにこのような十字架の福音の上に立っています。そしてこの働きを続けていきなさいという召しを受けました。世の人々はまだ力を求めて生きています。軍事力と経済力を増し強めることが生きる道だと主張します。ですから、私たちが行こうとする道は、世間の目には弱く見え、愚かに見えることでしょう。しかし、神の愚かさが人の賢さよりもっと賢く、神の弱さが人の強さよりも強いことを信じるために、私たちはひるまずにその道を歩もうとしています。基督教共助会は、「キリストの他自由独立、主に在る友情」をモットーに、この100年間、至らない部分もありながらも、最善を尽くしてその道を歩んできました。今後さらに励み、十字架につけられたキリストが歩んだその道をより力強く歩けることを願っています。その途上を、自ら先んじて十字架の道を歩まれたイエス· キリストが共に歩んでくださることでしょう。アーメン

(韓国基督教長老会ソウル第一教会主任牧師)