好きです―韓国 日本基督教団 北白川教会牧師 佐伯 勲

聖書 イザヤ書60章1~3節

讃美歌 五三二番「ひとたびは死にし身も」、五三一番「こころの緒お 琴ごとに」

京都・北白川教会の佐伯です。京都の仏教系の私立学校で20年間数学の先生をしていたのですが、その頃、在日韓国・朝鮮人に関わる問題に興味を持ち、京都在日大韓南部教会で行われていた九条オモニ学校(自主夜間中学)に参加、一世のオモニたちとの出会いを通して、韓国語を学びたくなり、その時の東九条地域での韓国語の先生が李イ 相サン勁キョン先生でした。ところが、教え方がへたくそで、〝ア・ヤ・オ・ヨ〟を2年間もです。これではイカンと思い、教師勤めを辞めて韓国に語学留学することに決心しました。内の奥さんからは「小学生の子ども二人もいるのに、アンタはあほか!」と言われましたが、快く? 送り出してくれました。こういう私みたいのを、〝韓国馬鹿〟〝韓国大好き人間〟と言います。

韓国は天国みたいなところでした。目に入ってくるもの(光景、自然)、耳に入ってくるもの(言葉、音楽)、鼻に匂ってくるもの、口に入ってくるもの(韓式の食事)、口から出る言葉、心で感じるもの、金美淑(キムミスク)さん、崔 秀蓮(チェスヨン)さん等々、人と人との出会い、どれもこれも大好き! 大学の西大門近所の三畳半の下宿生活。毎朝、大好きな尹東柱の詩碑の前で〝序詩〟を口ずさみ、学校に通いました。

1994年3月25日~1995年7月27日までの一年半弱、延世大学の語学堂に通い、日曜礼拝は、ここ香隣(ヒャンリン)教会に通いました。韓国における私の信仰の古里! です。香隣教会は朝鮮戦争休戦の年に、廃墟の中、南山(ナムサン)のふもとに同志が集まり、1953年の創立です。香隣教会のみなさん、韓国の基督者のみなさんは、この間、キリストの平和、南北の平和的統一を、望みを持って粘り強く祈って来られました。

学期の休み毎に、一イルサン山にあるホルト福祉タウン(重度の障がい者の施設)で奉仕活動をしました。

語学堂では学期の終わりにイヤギ・マダン(弁論大会)があります。6月7日、題目「オモニ学校」という題目で話させていただきました。もちろん一等賞! でした。奨学金ももらいましたヨ。

「九条オモニ学校」(一級弁論大会)私は、この3月まで三つの学校の先生でした。一つ目は、高等学校の数学の先生で、20年間しました。二つ目は、主日学校(日曜学校)の先生でした。10年間、子どもたちと神様、イエス様のお話を楽しくしてきました。三つ目はオモニ学校の先生です。

私が日本の京都で住んでいる地域は、京都中で一番たくさん、韓国・朝鮮の人たちが住んでいる地域です。その地域で今から16年前、1978年にオモニ学校が開校しました。私はそこで16年間先生をしました。合わせて46年間先生をしたことになります。今日はこのオモニ学校のお話を紹介します。

オモニ学校は、毎月曜日、夜7時半から9時まで、京都駅南側にある在日大韓基督教南部教会の部屋を借りて行われています。オモニ学校は、日本の文字を知らない在日一世のオモニたちが読み書きを習う学校です。でも普通の学校とちょっと違います。

一つ目は、一対一で勉強します。二つ目は、オモニ学校は死ぬ日まで卒業がありません。三つ目は、私たちはオモニたちに日本語を教えるけれども、私たちもオモニたちから、昔、若いときに日本に渡って来た苦労の歴史を学びます。一世のオモニたちが生きた歴史は、それは韓日の悲しい歴史です。オモニたちが語るお話は「身世打鈴(シンセタリョン)」です。私たちは、その身世打鈴を聞くと日本人であることが嫌になります。

四つ目は、私たちはオモニたちの日本語文法、発音の誤りを大切にします。なぜならば、その間違いにオモニたちの民族、世界があるからです。例えば、日本語で「ラクダ」は、オモニたちが発音すると「ナクダ」です。何度も「ラクダ、ラクダ」と教えるけれども。オモニたちは「ナクダ、ナクダ」と発音します。このような間違いに韓国語の文法と発音が、そして韓国語の世界があります。私は、韓国語を習って、韓国を愛し、韓国の文化と風習を理解したいです。そして、在日一世のオモニたちを深く理解したいです。私と初めて日本語を勉強したオモニが、年賀状をくださいました。オモニが初めて書いた葉書です。習った日本語で「明けましておめでとうございます。」と書いてありました。ところが、オモニは葉書への切手を貼ることを知らなかったために、私が郵便局に切手料金を払いました。この葉書はわたしの宝物です。

オモニ学校では休み時間にノレ(歌)を歌います。毎年春には「故コヒャンエポム郷の春」をよく歌います。オモニたちが一番好きな歌です。〝~ウルグップルグッ コッテグォル(色とりどりの花園)〟これは難しい文です。私は韓国に来て、この文章がわかりました。この春、延世大学構内では黄色のケナリ(れんぎょう)、ピンクのチンダルレ(つつじ)、白色のモンニョン(もくれん)が、あちこちでたくさん咲きました。とってもきれいでした。これが、〝~ウルグップルグッ コッテグォル〟の意味であることを理解することができました。韓国でこのように学ぶことができることを神様に感謝します。

もう一つ紹介します。これは、12月5日の弁論大会で話したものです。

「初めてなった実」(三級弁論大会)

前の中間テスト、マラギ(対話)のテストのときのことです。先生から次のような質問を受けました。「佐伯氏、チョッウォルグプ(初めての給料)はどのようにしましたか?」20年も前のことなので、その時私は、「おそらく、半分は貯蓄して、残り半分は欲しかったカメラを買いました。」と答えました。その時、私の答えに対して先生は、「韓国では最初の給料で両親に贈り物を差し上げるのだが……」と言われました。その時私はとても恥ずかしい気持ちになりました。そして、ある女性の方を思い出しました。その方は韓国人で、7、8年前、私が住んでいる日本の京都にある京都大学に留学しに来た人です。そして、私が通っていた教会に通って、そのとき知るようになりました。その方は、幼いとき、お父さんが亡くなられて、大変貧しい家庭で育ちました。お兄さんは、小学校に通いましたが途中でやめて、お父さんに代わって一生懸命働きました。そのお兄さんもお酒のために健康を悪くして、亡くなったと言います。

韓国では結婚せずに死んだ人は、お墓を作らないで、火葬にしてお骨を川に流すと言います。その方のお兄さんも独身で死んだので、ハンガン(漢江)にお骨を流したそうです。お母さんはお父さんが死んだとき以上に激しく泣いたそうです。

その方も、いつ中学校を、高校を、大学を辞めようかどうしようかと思いながらも、苦労して、奨学金をもらいながら一生懸命勉強を続けました。そして、ついに、日本に留学までしました。留学後、韓国に帰って結婚しました。しかし、夫君が経営しているスーパーマーケットで朝早くから、夜遅くまで働かなければなりませんでした。娘さんが生まれましたが、一緒に遊んであげる時間もありませんでした。さらに、夫君から殴られることも何回もありました。ひどく殴られたある日の夜、とうとう何も持たずに、娘さんをおいたまま、家を出ました。

そのようにして、その方は今、ある姉妹福祉会館に入りました。そこは、全国から、その方と同じような暴力を受けて来た女性の方達がたくさんいらっしゃるところです。その中には、子供連れの方も多いです。私も連絡を受けてその方と会って、どのようにしたらいいのか、一緒に相談しました。結局、離婚するために、裁判をすることになりました。

先の10月、あちこちが秋の実(ヨ ルメ)の香りでいっぱい満ちている時、私はその方に再び会いました。今は明るい顔になって、私はその時、その方が語った話を忘れることができません。

福祉会館の中に子どもたちのために幼稚園もあるのですが、その方はそこで9月から働いたのだそうです。たぶん自分の娘さんを思い出しながら働いたみたいです。そして、9月末に初めての給料をもらったそうです。その幼稚園からもらったお金は16万ウォン(日本のお金で約2万円)でした。わずか16万ウオンがその方の初めての給料でした。その方はその初めての給料をどのようになさったかと、みなさんは思われますか? 全部その施設に寄付しました。それは今、生活している施設に対する感謝の意味があるのでしょう。その時、その方は私に、〝初めての給料〟とは言いませんでした。〝初めてなった実〟と言いました。〝初めてなった実〟その言葉はとても印象的でした。本当にそのお金は〝初めての給料〟ではなく、〝初めてなった実〟です。なぜならば、自分の力でお金を稼いだのではなく、神さまの助けで実ったものだからです。

その時のその方は、とても美しく輝いて見えました。韓国には〝輝く貧しさ(ピ ンナヌンカナン)〟という言葉がないですか? その方は、お父さん、お兄さん、そして今、家、お金、娘さんもいません。ほとんどを失いましたが、輝いて見えました。それは、苦労と貧しさの中で身につけた、貧しさに負けない心、人に対する思いやり、美しい心、やさしい心……そのような心で再び生きていこうと決心したからです。みなさん! さらに、その心は、まさに私たちが、私が、忘れ去っていた心ではないでしょうか。

もう一つ! これは、1995年5月24日 内外経済新聞第30回外国人韓国語弁論大会に出た時のものです。

「低きところに立って~ホルトタウンで出会った人たち」(五級弁論大会)新都市一山(イルサン)にホルト福祉タウンという障がい者孤児施設があります。このホルト福祉タウンは1955年、アメリカ人のヘリー・ホルト氏によって六・二五(ユ ギオ)戦争後生まれた孤児8名を入養したことをはじまりとする施設なのですが、現在は社会から疎外された多くの障がいを持った孤児たち、約300名程に再活(社会復帰、リハビリ)のための専門的な治療と訓練を実施して、彼らが一人の人、人格体として、自立することができるよう手助けしているところです。私は今まで放学(学校が休み)ごとに、そのところで奉仕活動をしてきたのですが、今日はそこで出会った障がい者の方たちを紹介します。

イルサンまで行こうとすれば、いつもより早く起きて下宿を発たなければなりません。到着したらすぐに庭掃除をします。私は松の木が嫌いです。なぜなら、松の葉がたくさん落ちていて、掃くのが大変だからです。次にすることはウォンチョリという赤ちゃんにミルクを飲ませることです。ウォンチョリは〝オンチョンイ(三ツ口)〟という障がいがあります。みなさんも〝オンチョンイ〟という言葉を聞いたことがあるでしょう。ウォンチョリはちょっと醜い顔なのですが、特に口が目のあたりまで裂けています。ですから、鼻にチューブを通してミルクを飲ませるのですが、しばしば飲んだミルクをすぐ吐くので、そのことも大変です。また、重症脳性麻痺者のミョンヒのおむつを取り替えるのですが、大便の時は臭(くさ)い臭(にお)いが鼻をついて嫌になります。そして、また、重症脳性麻痺者のスヒのおしっこをさせるときは身体を簡易便器につけなければならないので、とても大変です。汗がだらだらと流れます。大便、小便、汗の臭においが混ざってがまんできないことが多いのです。

このような子たちを見続けていたら、誰でも一回ぐらいは、本当に神様はいらっしゃるのだろうかという思いにとらわれます。かわいそうで、また、かわいい子たちを孤児に、そして、障がい者にしたわけは何なのか知ることはできませんが、しかし、その澄んだ目、心は、ちょうど天使のように私に語りかけてくることがあります。ときどき、自分でもわからず、汚れた私の心が彼らの前で清らかに澄みきるのを感じます。この世で、どこの誰がこの子たちに不格好だと、あえて言うことができますか? そのとき、私は、イエス様はこのような臭いのする馬小屋で生まれたというお話を思い出しながら一生懸命奉仕活動をします。

おもしろい話があります。先に紹介したスヒに最初会ったとき、私に〝アッパー(お父さん)〟と呼んだので、その時私は驚きました。私にはそのような記憶がないからです。それで、「ちがうよ!」と答えようとしたけれど、ここにいる子たちには、この世に〝お父さん〟と呼べる父がいないのだということに気づきました。そして、このときだけでもスヒのお父さんでいてあげようと思いました。

さらにうれしかったことがありました。この間、失敗を何度もして、そのときごとに、〝ミアナムニダ!(ごめんなさい)〟と言うと、一緒に手伝っているウォンボク氏(彼女も障がい者で幼いときからここで生活している)が私に、「われわれはシック(食口)なのだから、そのように言わないで」と言ってくれました。その言葉、シック(食口)を聞いてとてもうれしかったです。カジョク(家族)は近い血縁で結ばれた人々を指すのに対して、シック(食口)は血縁が条件ではなく、同じ家に住み、寝食を共にしているメンバーであればシックと称します。

〝理解する〟は、英語では〝アンダースタンド〟です。どんな意味があるかわかりますか?〝アンダー〟は〝下に〟、そして、〝スタンド〟は〝立つ〟です。より低いところに立って考える、という意味です。より低いところにはイエス様がいらっしゃいます。私の韓国語の理解もそのようでありたいと願っています。私は毎日日記をつけていましたが、そのうち何日かを延世語学院のソシク(ニュース)に載せてもらいました。これも、ご紹介します。

「わたしの日記帳より」

2月14日

陰暦の1月15日で、旧正月15日の日です。五穀飯と9種類の野菜のあえものを食べ、〝私の暑さを買え!〟と言った。(こう言えばその年涼しく過ごせるという)去年の夏はほぼ40度までになったが、今年は少し涼しくなれば良いのだが。

下宿のおばさんが、韓国の風習だと言って、お酒を勧めるので。濁酒一杯飲んで、赤い顔をして学校に行った。そのお陰で授業時間、口が良く回った。

夜に、図書館から下宿に帰る道で空を見たら、大きな明るい満月が昇っていた。旧正月15日の満月を見て、願いをかければその願いがかなえられるというので、韓国が一日もはやく統一になることを願った。

3月1日

三・一節の日です。私が通っている教会(香隣教会)の特別礼拝に行った。山の上でのその礼拝に、一人のおばあさんが、当時、三・一独立運動の時作ったという大極旗を持って来られた。また、あるおじいさんは当時9歳だったのですが、大人の人たちと一緒に〝マンセー(万歳)〟を叫んだと言われました。そのような人たちのお話を聞きながら、日本の誠意ある謝罪と、再びそのような歴史が繰り返されなかったらいいのにと思いました。そして、数日前にあった尹ユン東トンジュ柱詩人の追慕式を思い出しました。私もその〝序詞〟のように一点の恥辱なき人生を歩みたいと思いました。


死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥(はじ)辱なきことを
葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ。
星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を歩みゆかねば。 
今宵も星が風に吹き晒される。
最後に、わたしは韓国の詩人、金 素月(キムソウォル)が大好きです。

 「つつじの花」
私が疎ましくて  去って行かれる時には
だまってそっと優しく送ってあげましょう
寧辺(ヨンビョン)の薬山  つつじの花  
ひと抱え摘み行かれる道に撒きましょう
歩まれるひと踏みひと踏み  撒かれたその花を  
軽やかに踏みしめお行きなさい
私が疎ましくて  去って行かれる時には  
死んでも涙は流しません

韓国のみなさんは、たとえ今は祖国の主権が奪われていようとも、分断の苦痛の中で呻吟し、絶望的な状況の中にあっても、必ず回復する日が来る、希望的な喜び〝光復〟です。イザヤ書60章に言い表されています。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」

この熱い確信を、このような離別と恋慕の情緒で歌い上げてきました。「アリラン」もそうでしょう。韓ハン 龍ヨン雲ウンの「ニム(愛しき人)の沈黙」もそうです。

この詩に出てくる「寧辺」は、今は北朝鮮の核開発施設のあるところとして有名になりました。人間の悪魔のような力、敵意、憎悪と死・殺戮の象徴みたいなところです。しかし、望むべくもない時代、試練の時でありますが、神はこの試練をとおしてわたしたちを鍛え育て導いてくださるということ、いつの日か「寧辺」に昔のようにつつじの花が咲き誇る日を、南北が統一され、民主化が成し遂げられる日を待ち望みたいと思います。韓国のみなさんがあの暗黒の時代、暴力的圧制、苦難と絶望の中にあったとき、5人の方々(飯沼二郎、奥田成孝、竹中正夫、浜尾文郎、和田正)は一枚の新聞(ザ ニュー ヨーク タイムズ)に望みを託されました。この神の力と愛とに裏打ちされた望みによって、すべての人を愛し、愛することが難しい人も愛してゆきたいと願うものです。2003年6月、私は洪 彰義(ホンチャンイ)先生と一緒に北朝鮮を望むこと

のできる臨イムジンガン津江の流れまで行って来ました。

1.臨津江水清く とうとうと流る 
水鳥自由に 群がり飛び交うよ
わが祖国南の地(北の地) 思いははるか 
臨津江水清く とうとうと流る

2.北の大地から 南の空へ(南の大地から北の空へ)
飛び行く鳥よ自由の使者よ
誰が祖国を二つに 分けてしまったの 
誰が祖国を 分けてしまったの

洪 彰義先生は幼い時、ご両親の祈りのもと、北朝鮮の教会で幼児洗礼を受けられましたが、その後、戦時中、北朝鮮で結婚式直後、花嫁やご両親と別れて来日し、その時以来、ご両親と会ったことがなく、また、ご両親や家族の消息も全く不明のまま半世紀以上たちました。来日し京都大学医学部で学んでおられた時に、北白川教会で信仰告白をなさいました。結婚式以来3年間別れたままの奥様の辺ヒョン 衡ビョン淑スク氏は、1946年1月、北朝鮮の先生と奥様両方のご両親の勧めで、厳寒の凍りついた河を北から南に渡り、38度線を越え、先生に会うことができましたが、奥様のご両親や家族の消息も今日全く不明のままです。

沢崎良子夫人は次のように語っておられました。「……臨津江を最初に渡られるのはイエス・キリストであり、次に南北の基督者たちが続いて渡られるんでしょうね……」

これがその時のわたしたち2人の望みでありました。

最後に、私は今、南部教会で韓国語を教えています。私の生徒さんは2人。50歳代のご婦人たちですが、本当に真面目な生徒さんで、3人で〝ヨル・コン(熱勉)〟しています。このご婦人たち、なんで韓国語を勉強しているのかと言うと、昔、「東方神起」にいたメンバーで、そこから3人が抜け、そのアイドル男性グループJYJ(ジェジュン、ユチョン、ジュンス)の一人で、〝パク・ユチョン〟がメチャ大好きで、私には意味不明の世界? ですが、今、大事件(薬物)を起こして逮捕されたのですが、それでも、韓国のニュースは嘘を言ってるんだとか言って、もうめちゃくちゃです。自分たちは最後まで信じると言っています。よっぽど大好きなんでしょうね! こういう〝韓国大好き〟な日本のご婦人たちがたくさんいるので、日韓関係、希望があるのでしょう!