十字架と高御座(たかみくら)-前半- 小笠原 亮一

ピリピ書2・6―11 列王記上19・9―18

1 新しい神話

日本が太平洋戦争に突入した時、アメリカの駐日大使はグルーという人でした。彼は1932年から42年まで10年間日本に滞在し、戦争が始まった翌年に帰国したのですが、戦争末期には国務次官という高い地位につき、敗戦後の日本にどのような政治システムを作ったらよいかという戦後構想の仕事にたずさわりました。実際の戦後の日本の政治の歩みはほとんどグルーの見通していた通りであったと言っても過言ではないほどの大きな洞察力と影響力を持った人物です。彼は、昭和天皇は戦争責任を免れることはできないと思っておりましたが、アメリカにとって日本に天皇制を残すことが必要であると主張しました。日本人は権威にたいして従順であり、勤勉に命をかけて従うようにしつけられている、外から民主主義を持ちこんでも混乱を招くだけである、日本の天皇制は軍部に利用され悪用されてはいるが、用い方次第では平和と民主主義の礎となり得るような性格のものである、反共の防波堤としても有効である、と主張しました。このような彼の主張はアメリカにおいて、特に戦時中にきびしい批判を受けましたが、彼は執拗にそのことを唱え続けました。このグルーの書いた文書の中に、象徴(symbol)や統合(unity)という言葉が現れてきます。これらの言葉が、さらにさかのぼってイギリスのパジョットという19世紀の政治学者の英国の王室についての著作に由来していることが今日明らかにされています(中村正則著『象徴天皇制への道』岩波新書)。こうしてグルーの影響のもとに戦後日本に象徴天皇制が作り出されることになりました。私はこのような背景を持つ象徴天皇制という法的制度が日本人自身の手によってどのような具体的な内実を持つようになるのか長い間分かりませんでした。戦後の歴史のなかで様々なイメージが浮かんでは去りましたが、象徴天皇の名のもとに新しい神話が形成され定着しようとしていることに気付いたのは、4年前、1986年のことでありました。当時の中曽根首相が企てた昭和天皇の在位60年記念式典をめぐる様々な演説、声明、発言の中から、そのことがはっきりと見えてきました。そしてその新しい神話が定着したのは、昭和天皇の死の直後、あの洪水のようなマスコミ報道によってです。

昭和天皇は敗戦の翌年1月1日いわゆる「人間宣言」において、「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話0 0 ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」と語りましたが、「建国記念日」に見られるように古い神話が復活したばかりでなく、新しい神話が象徴天皇制を支え満たすものとして形成されてきました。在位60年という発想は、昭和天皇の戦争責任を無視し、憲法と天皇の性格の根本的変化を無視するところから生じています。その発想に現れている昭和天皇のイメージは、戦前・戦後を通じて1貫して平和主義者であり立憲君主であるというイメージです。軍部が悪かったのだと、全ての責任が軍部に転嫁される。軍部に抗した天皇の「終戦の御聖断」によって今日の経済的繁栄が在るというのです。このイメージが新しい神話として象徴天皇制の内容になっています。

天皇が平和主義者であり立憲君主であるという新しい神話は、単に昭和天皇にとどまらず昭和天皇自身によって明治天皇にまで及ぼされています。つまり、昭和天皇が明治天皇を自らの範としたことによって、少なくとも昭和天皇の主観においては明治天皇までが平和主義者であり立憲君主であることになってしまいます。太平洋戦争開戦に決定的な意味を持った1941年9月6日の御前会議において、昭和天皇は明治天皇の御製を読み上げました。

「四よも方の海

皆同はらから胞と思う代に

などあだ波の

立ち騒ぐらむ」

この歌を歌った明治天皇は2回も大きな戦争をしましたから、この歌だけでは、戦争をやめよと言っているのか、平和を望むが戦争もやむ得ないと言っているのか、はっきりしません。この歌が一方的に喧伝されて明治天皇も昭和天皇も平和主義者にされてしまう。さらに「人間宣言」について、昭和天皇は1977年の記者会見において、「神格とかそういうことは2の問題であった」(「人間宣言」においては神格否定は明言されていない)、第1の問題は「5箇条の御誓文」に在った、民主主義は敗戦によって新しく日本に持ちこまれた

ものではなくすでに明治天皇の「5箇条の御誓文」に謳われている、ということを語りたかったのであると言っています。

このような新しい神話、平和主義者であり立憲君主である昭和、さらに明治天皇のイメージが、平成の新天皇にも継承されていることが、昭和天皇の死を契機とした1連の儀式においてもはっきりと示されました。昨1989年の1月7日昭和天皇の死の直後「剣けん璽じ 等承継の儀」において皇位を継承した新天皇は、9日「朝見の儀」において国民に対し次のような「お言葉」を語りました。「顧みれば、大行天皇には、御在位60有余年ひたすら世界の平和0 0 0 0 0 と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、常に国民と共に幾多0 0 の困難を乗りこえられ、今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに到りました」ここでも父昭和天皇は、あの数1000万の犠牲を生んだ戦争やそれに対する責任がなかったかの如く、平和主義者としてたたえられています。また、日本国憲法前文の「……国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」という言葉が、ここでは「国際社会に名誉ある地位を占めるに到りました」と完了形で記されていることも注目すべき点です。暗に天皇の「御聖断」が今日の経済的繁栄をもたらしたと語られているわけですが、国の名誉を経済的成功を中心に考えることはいかにも浅薄です。教科書問題や靖国神社問題など戦争責任をめぐる問題でくりかえしアジア諸国からなされる批判は、わが国が依然として真の意味で尊敬される国になっていないことを示しています。そしてその根本に天皇の戦争責任の隠蔽があります。

さらに去る11月12日、新天皇は即位の礼において御見座から次のように語りました。「このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の60余年にわたる御座位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として」この「お言葉」はおそらくあの「人間宣言」の「然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休威ヲ分タント欲ス」を受けた言葉です。休威は喜びと悲しみを意味しています。つまり、「常ニ利害ヲ同ジウシ休威ヲ分タント欲ス」という昭和天皇の願いが「60余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた」ということにおいて成就された、と完了形、過去形で語られているのです。

以上見てきたように、昭和天皇は明治天皇を範とし、新天皇は昭和天皇の「御心」を「心」とすることによって、明治天皇→昭和天皇→新天皇と貫通するイメージ、平和主義者であり立憲君主であるイメージ、あたかも戦争も憲法や天皇の性格の根本的変化もなかったかのように新しい神話が形成され象徴天皇制の内容となっている様子をはっきりと見てとることができます。このことを最も象徴的に示しているのは即位礼において用いられた高御座です。この高御座は、伊藤博文が神聖天皇を謳った明治憲法に即応するものとして明治末期に作った皇室典範、登極令に基づいて制作され、神聖天皇の統治権が由来する高天原や神勅を象徴する神話的伝統的要素を根幹に、西欧の玉座に通じる近代化がほどこされたものであると言われております。この高御座に登ったのは大正天皇と昭和天皇であり、今回新天皇が登ったのも同じ高御座です。アジアの数1000万の人々を殺した罪を覆い隠し、憲法の根本的な変化がなかったかの如く高御座に登る姿には偽瞞と虚偽が満ちています。私は、その罪を覆い隠して偽瞞的に美化され、聖化され、神化された高御座の天皇とまったく対照的に、世の罪を負って罪人として辱めと苦しみに満ちて十字架に挙げられたイエス・キリストのことを思わざるを得ません。

 

2 苦楽を共にする神

天皇は朝見の儀においても即位礼においても繰り返し憲法を守ると語りました。昭和天皇は戦後、憲法で定められた国事行為以外の公的行為と呼ばれる行為を行ってきました。それは天皇が国や国民の統合の象徴であるところから必然に付随する行為であるとされています。こうして国事行為と私的行為との間に曖昧な公的行為の領域が設定されて、この領域が無際限に拡大してきました。新天皇は昨夜(22日)から今朝(23日)にかけて大だいじょうさい嘗祭をこの公的行事として行いました。政府が神道儀式であることを認め政教分離原則に違反するために国事とすることができなかった大嘗祭を、公的行事として国費で行ったのです。そして新天皇が無際限に拡大してきた公的行事の行きついた先が、新天皇の公的行事としての大嘗祭であったのです。そして新天皇が憲法を守ると宣言しつつ大嘗祭を公的行事として行ったということは、1つの重大な憲法解釈主張であり、憲法を空洞化する政治行為です。そういう点で私は、新天皇の憲法を守るという言葉には、もはや信頼も期待もよせることができません。象徴天皇制が高御座や大嘗祭を含む現実として眼前に明らかになった今、私はそれに対して否定的に対峙するしかありません。

新しい神話としての平和主義的な象徴天皇制のイメージを、以上申し上げたように昭和天皇や新天皇が自ら作り出し、伝統の名によって古い神話と結合してきたばかりでなく、戦後様々な歴史学者もそのイメージ作りに協力してきました。日本の天皇は古来権力の座につかず非執政の立場で権威を保持してきた、象徴天皇制こそが天皇制本来の姿であり自然の姿である、と、非執政の多様な形態を不問にふしたまま、江戸時代の天皇も今日の大葬や大嘗祭に膨大な費用を用いる天皇も非執政の中に一括して、主張してきました。最近では、大嘗祭についても象徴天皇制に適った新しい解釈、かつての折口信夫の神聖天皇に適った大嘗祭解釈を批判する解釈が登場して来ています。

先に記しましたように、新天皇は高御座から「御父昭和天皇の60余年にわたるご在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心」と語りました。私はこの言葉は、昭和天皇を美化し聖化し、神化する言葉、罪人を偶像化する言葉であると思い、おぞましいものを感じました。私たちは他者と苦楽を共にしたいと願います。しかし、私たちは、夫婦であっても、親子であっても、信仰の友であっても「いかなるときも」苦楽を共にしたとは言いきれぬ慚愧の思いを心に抱いております。「いかなるときも」苦楽を共にしたいと願いつつ共にすることのできなかった悲嘆、申し訳けなさ、罪の思い、限界の思いを抱いております。それが人間の現実であり、「いかなるときも」苦楽を共にしうるのは、インマヌエル(「神われらと共にいます」マタイ福音書1・23)なる神のみです。「60余年」「いかなるときも」「国民と苦楽を共にされた」という言葉に対し海部首相は万歳を三唱しましたが、私には地底から、「そうではない」と呻く叫ぶ声がきこえてくるように思います。本土の捨て石とされ戦後も昭和天皇自らアメリカに反共の砦として占領の継続を依頼した沖縄の人々、国体護持優先のためにポツダム宣言受諾がひきのばされている間に被爆した広島・長崎の人々、治安維持法によって獄死した人々、皇民として強制連行された朝鮮の人々。これらの人々を切り捨てることによって天皇制は生きのびたのであり、これらの人々を国民の数の中に含めないことによってはじめて「国民と苦楽を共にされた」と語り得るのではないか。

インマヌエルなる神であるイエス・キリストが、私たちと共に在るあり方は、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ1・8)という低さにおいてです。この低さ、十字架の死において地底のあらゆる呻きをも共にし給う神、イエス・キリストを信じる者として、私は、高御座から語られた新天皇の昭和天皇を神化する言葉に対して、明確に、否いな、と語らなければなりません。

神道学者葦あし津づ 珍うずひこ彦氏(『みやびと覇権』)は、天皇は「日本人の精神の統合者」として「民の希望、苦しむところをことごとく知り尽くして、精神の統合をはかる」そして「天下の祭り主」として「民の総意が統合された時、その最終決定者として、日本人を代表して、それを皇祖神に奉告し、祈念する」と言っています。いかなるときも国民と苦楽を共にする天皇という考えは、単なる倫理的次元を越えており、日本人の精神の統合者として皇祖神につながるという神的要素、宗教的次元なしには考えることができません。   (1991年2・3月合併号より転記)