歴史を省みる視点  飯島 信

【キリスト教共助会総会開会礼拝 説教】

コリントの信徒への手紙1 第3章10節―17節

10
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。

11
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

12
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、

13
おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

14
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、

15
燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

16
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

17
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

今年の一月、日本基督教団西東京教区主催の一泊教師研修会が、吉祥寺からバスで15分ほどの所にある日本聖公会の研修施設で行われました。講師は、長い間鎌倉雪ノ下教会を牧会された加藤常昭先生でしたが、私が参加出来たのは2日目に行われた二回目の講演でした。

加藤常昭先生は、島崎光正さんと親しいことは知っていましたが、彼が語る聖書の話を初めて聞きました。彼の講演は新鮮でした。新鮮というより、心を打ちました。語られた中でも、十字架でのイエス様の言葉、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」についての言葉が私の心を捕らえました。あるいはまた、今の教会ほど、聖書から離れている教会はない。聖書では赦しが語られているのに、教会は過ちを犯した人を赦さず、厳しく裁き続けている事などを指摘されました。

私は、彼が語る十字架の福音を聞きながら、これまで心の中で避けて来た一つの絵を思い出していました。それは、若くして神様のもとに召された私たちの友、彫刻家の金子健二さんが描いた十字架上のイエス様の絵でした。その絵は、召される死の床で、最後に描いた絵として私たちに遺したものです。彼が召されてから十年以上の年月が経ちますが、私はこれまでその絵を直視することは出来ませんでした。そこには、全ての望みが断たれた絶望の影が漂っていたからです。

しかし、加藤常昭先生の講演は、まさに、その絶望をそのまま語っていました。イエス様は、あの時、人間として真実に絶望されたのだと。

来年百周年を迎える共助会は、この夏の修養会で人間の罪の問題に正面から向き合いたいと思います。そして、神様からの恵みである十字架の福音についての学びを深めたいと思います。そのために、加藤常昭先生から、改めて人間の罪の問題、そして十字架の福音に焦点を当てて、語っていただければと思っています。

誰でもそうであるように、私にも、人生において幾つもの関わりがあります。一番身近な所は、家族であり、そこから輪を広げて、職場でもある教会があり、共助会があり、様々な社会的活動があります。そして、その全てにおいて、神様は、私に先立って、神様御自身がなさろうとしている業を準備しています。私は、神様がなさろうとしている業を見出し、その業に与るべく招かれています。キリスト者の人生とは、皆そうであると思います。そして、神様がなさろうとしているその業に与るに相応しい己となるために、整えられ、用いられて行くことを祈るのです。

私という一人の人間、その人間が歩んで行く人生、しかも、キリスト者として歩んで行く時の土台となるのが、己の罪の自覚です。己の罪の自覚なくして、言い換えれば、罪の赦しとしてのイエス様の贖いの十字架なくして、キリスト者としての歩みを成し得ることは出来ません。朝目覚め、夜眠りに入るその時まで、私たちの日々の歩みを支えるのは十字架の福音です。私は、そう思っています。

次に、私にとっての共助会、そして共助会の使命について考えていることを述べます。

まず、私にとっての共助会です。

共助会のテーゼの一つである「キリストの他自由独立の団体」について。

私は、罪の最たるものは、傲慢だと思います。

共助会は、その傲慢という罪を私に教え、そのことを神様の前に悔い改める道へと導いて下さいましたその結果として、私は一度去った教会に戻ることが出来ました。共助会との出会い無くして、私は教会に戻り得たかどうか、それ以上に罪の最たるものが傲慢であると気づき得たかどうか分かりません。

「キリストの他自由独立の団体」というのは、この団体に加わるには、己の罪を認め、イエス様による罪の贖いの十字架と復活を信じる、そのことだけが入会の条件だということです。教派を問わず、プロテスタント、カトリック、無教会を問わず、十字架の福音を信じる者による集まり、それがキリスト教共助会です。

続いて共助会の交わり、「主にある友情」についてです。

私は、共助会は、神様から託された使命を担っている伝道団体だと思います。

その使命とは、キリストを友に紹介することです。

一人でも多くの友にキリストを紹介する、それこそが共助会に与えられた使命です。ですから、未だキリストを知らずにいる友、あるいは、教会から遠ざかっている友に、キリストの福音に与る道を歩むことを呼びかける、それが神様から私たちに与えられた務めです。その時に訪れて来る問いとして、「そのようなことは、教会が行う伝道で十分ではないか」「なぜ、教会の他に共助会があるのか」などがあります。私は次のように考えるのです。私の経験からの事実として、共助会の役割の一つは、教会に躓いた者を受け止め、今一度福音の道を指し示すことです。また、信仰者としてのお互いの研鑽を積みつつ、その実りをもって教会に仕えて行くことです。そして何よりも、各個教会の違いを超え、教派の壁を超え、プロテスタント・カトリック・無教会の壁を超え、文字通り、キリストの他自由独立の使命的伝道に生きる者の交わり、それが共助会であると思います。

以上の理解の上に立って、共助会100周年記念宣言の内容に触れます。

まず100年の歩みを導かれた神様への感謝があります。

1919年12月のクリスマス、森明は「帝国大学高等学校学生基督教共助会」の発会を宣言しました。31歳の時です。爾来百年の歳月が経ち、日本の戦前・戦時・戦後を貫いて基督教共助会の歩みは続いています。

私は、先ほども述べましたが、私たちの思いに先立って神様がなそうとしている業があると思います。森明の共助会設立も、その御業の一つです。神様は、日本の黎明期より半世紀を経て、日本の地でなさろうとしている御業に森明を与らせ、さらに星のごとくきらめくような先達たちをその働きに招きました。そして、私たちも今、招かれています。そうであるなら、この日本の地で、神様がなそうとしておられる御業とは何か、神様は一体私たちに何をせよと命じておられるのか、また私たちは正しくその御業に与ることが出来ているのか、そのことが問われるのです。

組織らしい組織もなく、事務所もなく、規約も主なるものはただ2つのテーゼだけの共助会が、日本のキリスト教史に百年の歩みを刻んでいます。信じられないことです。その名こそ知られていないものの、YMCA(1880)、婦人矯風会(1886)、YWCA(1905)と並ぶほどの歴史を歩んでいます。

神様がこの日本の地で、共助会を通してなさろうとしている御業とは何か、それはこれまでの100年の歩みを振り返る時に、鮮やかに示されていると思います。そのことは、共助会の果たして来た実践とその歴史的意味によって知ることが出来ます。

戦前に発行されたタブロイド版「共助」の紙面には、必ず共助会員による地方伝道の消息が掲載されていました。地方の旧制高等学校への訪問伝道です。その労苦と共に、実りがどれほど豊かなものであったかを知ることは難しいことではありません。

「キリストの他自由独立の団体」「主に在る友情」という共助会の2つのテーゼは、このような伝道を通して命が与えられ、内実を形成してきました。その歩みは、小塩力によって、日本キリスト教史において「清冽な流れをたやさなかった注 注」交わりを続けている人々であるとも語られました。さらに、この交わりに、韓国からの留学生も加わり、解放後の長い年月を経て、韓国共助会として結実しています注 注。再開して十年の時を経た佐久聖書学舎は、共助会創立当初の目的である若い魂への伝道を、今にしてなお実践している場です。

共助会に連なる者たちは、教会をも生み出して行きました。中渋谷教会、北白川教会、目白町教会、単立松本日本キリスト教会(現松本東教会)、美竹教会、海老名教会、久我山教会などです。その他、共助会員が牧会した教会を数え上げれば、数あまた多に上ります。

教育の分野では、共助会立の学校こそありませんが、共助会員が公立私立を問わず、その教育内容に深く関与した小中高大学も少なくありません。

政治的・社会的分野における活動は、特に戦後に顕著となります。ハンセン病への取り組みを初め、平和運動への積極的な関わりなど、敗戦後の日本の進路に対し、2度と過ちを繰り返すことのないよう警鐘を鳴らし続けています。その一方で、在日朝鮮人・韓国人に対する民族差別や韓国民主化運動支援にも取り組んで来ました。国内外の弱くされた人々、国々との関わりを視野に置きつつ、私たちの国の在り様を考えて来ているのです。

そして今、これまでの歩みを導かれた神様に感謝しつつ、それにもかかわらず、かつて共助会の先達が犯した過ちへの悔い改めを含め、百周年宣言では、共助会が問われている事柄への応答をしたいと思います。

応答の一つは、共助会の先達が行った「みくに運動注 注」についてです。

「みくに運動」における過ちは、神ならぬものを神とする十戒の第一戒を破ったことにあります。そして、過った教えを宣べ伝えることによって、神と人とに深い罪を犯しました。「みくに運動」は、共助会とは直接の関わりのない運動とはいえ、かつては共助会員としての働きを担った先達の犯した過ちは、私たちの過ちでもあります。

また、第二次世界大戦下、「大東亜共栄圏に在るキリスト教徒に送る書簡」に応募し、日本基督教団の戦争遂行政策に与した先達もいました。

さらに、軍部の推し進める対アジアへの侵略に対しても沈黙をもって加担しました。

私たちは、これらの事実を認め、神様の前に悔い改め、2度とこのような過ちを犯すことのないことを宣言したいと思います。

応答の第2は、熱河宣教注 注で問われていることについてです。熱河とは、地理的には「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす」三光作戦の舞台となった熱河省興隆県を指し、中国民衆に対する虐殺の地です。それ故に、熱河宣教を担った澤崎堅造らが軍部に抵抗せず、ただ宣教のみに携わって行ったその行為は、日本の侵略の実態を覆い隠し、その残虐行為を結果として是認するものでしかなかったという批判が生まれています。しかし、私は、そのような批判に対し次のように応えます。

共助会の先達である澤崎堅造・良子夫妻と和田正・テル子夫妻によって行われた中国・熱河の地での伝道の意義は、彼らが共に生活をし、交流を持った人々によってのみ証しされると考えています。澤崎と和田は、剣によって残虐の限りを尽くしていた日本の軍部に対し、その罪を背負うために福音伝道の業を携えて熱河の地へと入り、宣教に生きました。そして澤崎は殉教の死を遂げました。たとえ、日本の侵略政策に目に見える形での抵抗の戦いを成し得なかったとしても、そのことを理由に、彼らの伝道を侵略政策に加担した行為であると決めつける批判を、私はそのまま受け入れることは出来ません。

応答の第3としての、ハンセン病との関わり注 注についても同じことが言えると思います。原田季夫によってなされた長島愛生園での働きは、長島聖書学舎を生み、伝道者を育てました。国賠訴訟によって指摘されている宗教者の果たして来た犯罪的役割について、その指摘はその通りであると認めつつ、なお原田季夫の働きへの思いは、原田季夫と共に生きたハンセン病の人々の思いに委ねなければならないと思います。

つまり、キリスト教共助会が拠って立つ政治的・社会的問題に対する立ち位置は、あくまでも人格と人格との関わりに置くのです。それは、全体状況が全ての価値を決めるのではなく、その状況下において、いかなる人格と人格との関わりが生まれていたのか、そこに立ち位置を定めるのです。

司式者によって読んでいただいた冒頭のパウロの言葉は、歴史における政治的・社会的現実の中で、私たちの立つべき拠り所、歴史を省みる視点を示唆しています。パウロの記したこれらの言葉の中で、私は特に14、15節に注目するのです。

14
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、

15
燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

主イエス・キリストという土台、それは、イエス様が私たちの罪の贖いのために十字架に架かり、死にて葬られ、しかし、死を打ち破って復活し、死に勝利したことを意味しています。その土台の上に立ってなせる業は、神様の御業に与る働きとなり、その仕事は残るのです。しかし、燃え尽きてしまった時、確かに損害は受けるけれども、その人は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われると言うのです。

燃え尽きる仕事とは、あるいは全体状況としては、過ちと指摘される仕事と言えるかも知れません。しかし、たとえそうであったとしても、そこで築かれた人格的な関わりによって、「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように」神様によって救われるというのです。

歴史の主なる神様が100年を越えてなお、この日本の地でなそうとしている御業に、憐れみと赦しをもって私たちを招き、与らせて下さることを祈りつつ、基督教共助会創立百周年記念宣言を作成し、発表したいと思っています。

祈りましょう。

注1 高坂正顕等編『近代日本とキリスト教 ―大正・昭和編― 』、創文社、1970年、148頁。

注2 李仁夏「一粒のからし種」『歴史に生きるキリスト者 ―真の友情から問いかける日韓関係― 』、基督教共助会、1993年、1頁。

注3 「みくに運動」(1935〜1943)今泉源吉によって行われた日本的キリスト教の運動。雑誌『みくに』を創刊。今泉は、1925(大正14)年、森明逝去後の中渋谷日本基督教会主任担任教師に就任。四年間の牧会を経て、一九二九(昭和四)年辞任。一九三三(昭和八)年中渋谷教会を離れ、独立伝道を志し、「みくに運動」を始める。最後は、キリスト教批判にまで行きつく。「みくに運動」を支えた「みくに会要項」は以下の通り。

(1)本会は建国以来未曾有の時機に会し皇国の眞精神を内外に宣揚するを本旨とす。

(2)本会は月刊みくに誌を発行し尚出版講演医療其他の事業を行う。(以下略)

また、『みくに』誌上に載った座談会の中で、今泉は次のように語っている。

「私はキリスト教の人々がエホバが眞神であると思ふて居るが、天照大神こそ眞神であらせられ、エホバは実にユダヤ人によって信ぜられる氏神、然もゆがめられた氏神だと思ひます。昔日本でも源氏の中には八幡大菩薩と言ふ名前を眞中に大きく書いてその傍らに天照大神とかいた場合があるさうです。又地方の氏の神社にゆくとかへつて天照大神が傍らのほこらにそまつにまつられてあつたりすることがある様に、今までいかにもユダヤエホバ神と言ふ名前で言はれて来た本当の御本体こそ、天照皇大神であらせられることがわかつて来るのだと思ふ。日本のキリスト教は恐ろしいあやまちをして居るのは其処なのです。」(大島純男「共助会と『みくに』運動」、『共助』二〇〇〇年二・三月合併号、三〇頁)

注4 熱河宣教(1935―1948)1935(昭和19)年10月、福井二郎・敏子夫妻が中国の熱河省・承徳の地に到着、伝道を開始する。12月、承徳教会設立。その後、共助会関係者としては、澤崎堅造・良子夫妻、和田正・テル子夫妻らが加わる。敗戦後の1953(昭和28)年9月、宣教に従事した吉田順子が最後に中国から帰国する。

澤崎は、熱河宣教について次のように語っている。「昭和18年(1943年)1月初旬、熱河における諸教会の主任者が初めて一堂に会する機会を得ました。霊修と研鑽のためであります。その時、期せずして私達の眼前に見えたものは何ですか。それは唯一つです。主の十字架の御姿です。私達は何をするのでもありません。また出来るのでもありません。唯主の十字架を確かと見つめることです。主の御手、御足より流るる血潮に、私達はくだかれるのみでした。悔の涙から僅かに立たしめられる思いでした。主の御姿を、唯主の御姿を仰ぐもののみです。熱河伝道も、唯そこに主が立ち、主が歩み給うからであります。蒙古伝道、それは唯主がそこへ歩み往き給うからであります。熱河伝道の計画も会計も伝道者の養成も、唯この一点に集中すべきであります。その点から流れ出すべきであります。」(澤崎堅造『新の墓にて』、未来社、1967年、135頁)

注5 ハンセン病との関わり共助会の原田季夫(1908―1967)は、1958(昭和33)年3月、瀬戸内海のハンセン病療養施設である長島愛生園の対岸の虫明に居を構え、長島愛生園の伝道に従事。12月、曙教会牧師となる。1961(昭和36)年、「病者による病者のための伝道」を目的とした長島聖書学舎を設立。第2期生の卒業を前にした1967(昭和42)年1月召天。原田は、長島に来た理由を次のように述べた。「(旧制浦和高校)2学年の夏から三学年の秋にかけて1年余、私は自らが世の人の最もいとい恐れるハンセン病ではないかという深い疑雲につつまれたのである。……高校大学の6カ年を通じ一日も病気欠席をしたことはなかったほどの健康に恵まれながら……当時の私には生死をかけての真剣な苦闘であった。しかし幸いなことは既に信仰の道に導かれていた身は、これを単なる肉体の問題たる以上に、肉に生くるか霊に生くるかの二者択一の対決を迫られ信仰の徹底を強いられた霊性の問題として受け、この悩みを『神における悩み』として苦悩し得たことである。……幸いにして許された健康は最早わがものでなく、主の御用のためにささげ殊に幸薄き病者のために尽そうという決心はその時から定まっていたのである。」(原田季夫「若き日のくびき」『原田季夫遺稿集』、長島聖書学舎同窓会、1977年、3頁)