天には栄光、地には平和 ルカによる福音書二章八―二〇節 原田 博充

一、主イエス御降誕における多様な恵み

 主イエス・キリストの御降誕を告げ知らせる聖書の記事、その出来事には、「民全体に与えられる」(ルカ二・一〇)数々の使信がある。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ一・二三)「自分の民を罪から救う」(マタイ一・二一)ことを意味する「イエス(ヤハウェは救いなり)」(同)の御名、「探し当てる」(ルカ二・一六)まで旅を続ける求道者の姿(マタイ二・一―一二)、ヘロデ大王の支配する暗闇の世界に輝く希望の光(マタイ二・九、ルカ二・九、ヨハネ一・九)」、救い主に出会う者の「喜び」( マタイ二・一〇、ルカ二・一〇)、「飼い葉桶に寝かせた」(ルカ二・七)幼き主イエスに顕わされた神の低き姿(ケノーシス)等々枚挙に暇いとまがない。まことに「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ一・一四)。

二、人間と戦争

これら数々の恵みの使信に加えて「平和」の訪れも、キリスト降誕がもたらす大きな使信である。私は、今回は特にこのことに集中して、今年のクリスマスがもたらす恵みと希望をお伝えしたい。

それと言うのも、ここ数年、とくに今年は、世界の平和が脅やかされ、何やらきなくさい程に「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」(マタイ二四・六)からである。北朝鮮、トランプ氏、そして安倍晋三氏の危うい対決路線、更には習近平氏の大国志向は、私共をはらはらさせる。日本帝国主義と戦って独立を勝ち取った北朝鮮の初代国家主席金キムイルソン日成には、先軍思想というのがあり、国家存続のために軍事力を優先する考え方が継承されている。

これに対するアメリカ、日本の圧力一辺倒は、いつ火を吹くかわからない。日本の無謀な侵略戦争の故に蒙こうむった原爆ではあるが、アメリカは広島・長崎への原爆投下を、今もって罪深きことと認めて謝罪していないので、いざとなれば、三度原爆を投下する恐れなしとしない。世界では、IS(イスラム国)、クルド民族、ミャンマーのロヒンギャ等々抑圧された少数者の悲痛な叫びが聞こえてくる。それぞれの国家や民族の争いには、それぞれに複雑な事情があるが、今ここではそのいちいちには立ち入らず、ともかく人間は、民族、国家、宗教等をめぐって常に争い、殺し合い、憎しみ合ってきたということだけを覚えたい。北朝鮮の核武装をやめさせるこ

とは当然のことだが、報道によれば圧力をかけるアメリカは六八〇〇発の核兵器を持ち、ロシアは七〇〇〇発、その他英国、フランス、イスラエル、中国、インド、パキスタン、北朝鮮(一〇―二〇発)等を加えると、世界の核弾頭数は、ピーク時の一九八六年では六四〇〇〇発を超えていたという(京都新聞二〇一七年七月一五日、一〇月七日等、なお、両日の記事では米・ロなどの核弾頭の数字が若干異なるので概数として記しておく)。

あの広島、長崎の惨事を思い起こすとき、人間は、これほどの核爆弾をため込んでいったいどうするつもりだろうか、と思う。若き日、受験勉強で、マケドニアから出てたちまちのうちにインダス川のあたりまで征服し、ヘレニズム世界を実現したアレクサンドロス大王(BC三五六―三二三)のことを 学び、大変な英雄だと感心したが、つい先頃、彼はそれまで誰も使わなかった六メートルの長さの槍を発明し、これで一気に大陸を制覇したのだと知り、愕然とした。彼もさぞかし多くの人々を殺したことであろう。「英雄」とはこのような者である。人間は、昔から今に至るまで、平和を求める心はあるが、しかし現実には、はてしなく殺しあって生きてきたのだなぁ、と思う。

旧約の民イスラエルも、その例外ではなかった。モーセに始まり、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記等を読むと、万軍の主(まさに軍神)の旗のもと、異民族に対する残酷な戦争の歴史が続いている。サムエル記上一五章には「万軍の主」の名によるアマレク絶滅を命じる聖絶の思想(主なる神において敵を全滅させることを正しいとする思想)までも述べられている。

三、旧約時代の平和の希求

しかし、このような旧約の世界にも平和への希求は、地下水脈が吹き出すようにあちこちに語られている。イザヤ書二・一―五(ミカ書四・一―五)ゼカリヤ書五・九―一〇などは、そ の代表的なものである。

ここでは、主イエスの御降誕を予告する旧約聖書の預言に示されている平和への希求を思い起こしてみよう。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。  
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。   
権威が彼の肩にある。  
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。

ダビデの王座とその王国に権威は増し  
平和は絶えることがない。  
王国は正義と恵みの業によって  
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書九・五―六)

 「平和」という言葉はないが、イザヤ書一一・一―一〇も同じ趣旨の預言である。イザヤの時代(BC七四〇―七〇〇頃)は、北東の大国アッスリアの脅威のもと、南の大国エジプトとの間に挟まれて、自国の安全を如何にして保つかが大きな問題であった。ここにダビデのすえなる「平和の君」の誕生による正義と恵みの業(ミシュパートとツェデーク)の行われる「とこしえの」王国の実現が預言され、新約聖書においてこの王が救い主イエス・キリストと同定される。しかし、それに先立つイザヤ書八・二二b―九・五を少し詳しく読んでみると、この平和は、ミディアンの日(士師記七章)にギデオンがミディアン人、アマレク人らを打ち滅ぼしたように、周辺諸民族を徹底的に打ち滅ぼした後に、兵士の靴、血にまみれた軍服を ことごとく火に投げ込み、焼き尽くして実現する「とこしえの平和」である。周辺諸民族の征服の後に実現する平和は、まだ本当に究極的な平和の訪れとは言えないのではなかろうか。

四、クリスマスの平和

主イエスの誕生の時代も、ローマ帝国の地中海世界征服、ヘロデ大王の支配(マタイ二章)という「暗闇」(ヨハネ一・五)の時代であった。そういう時代に主なる神が望まれた主イエスの誕生をめぐって、ルカ福音書は特に「平和」という言葉を多く伝えている。

 「これは我らの神の憐れみの心による。  
この憐れみによって、  
高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、  
我らの歩みを平和の道(エイス・ホドン・エイレーネース)に、導く。」(ルカ一・七八―七九)

このザカリヤの預言(ベネディクトス)では、右の御言葉に先立つ七六―七七節で、主に先立っていくバプテスマのヨハネが「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と語られる。罪の赦しこそ人々に「平和」をもたらすのである。

「いと高きところには栄光、神にあれ、  
地には平和(エイレーネー)、御心に適う人にあれ。」(ルカ二・一四)

 野宿していた羊飼いに告げられた天使の合唱である。これについては、もう少し詳しく後述したい。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ二・二九)

主イエスの両親が、その子を主にささげるためエルサレムに詣でたとき、主に導かれて神殿の境内に入ってきたシメオンは、奇しくも幼き主イエスに出会い、幼子を抱き、神をたたえて、こういったのである。ここに「安らかに」と訳されているギリシア語は、エン・エイレーネーで、英訳(NRSV) では、in peace「平和のうちに」、である。このように、ルカは特に、主イエスの誕生が平和をもたらすものであることをくり返し述べている。

五、主イエスの誕生の場を尋ねる羊飼い

四福音書において、マタイ二・一―二三の占星術の学者たちのベツレヘムへの旅とルカ二・八―二〇の羊飼いたちのベツレヘム訪問は、双璧をなす二大巡礼物語である。私は、以前にマタイ二章については、「共助」誌二〇一二年第八号(拙著『聖書の平和主義と日本国憲法』(キリスト新聞社)所収)に述べたこ とがあるので、今回は、羊飼いたちのベツレヘム訪問の出来事について簡潔に物語を辿ってみたい。

羊飼いたちは、ベツレヘムからほど遠からぬ野原で野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。今日クリスマスは、北半球では寒い冬、一二月二五日に世界中で祝われることになっているが、パレスチナで羊の群れを放牧出来るのは四月から一一月頃までとのことである。史実として主イエスの誕生日が何月何日であったかは確定できない。クリスマスを一二月二五日に祝うようになったのは、四世紀頃ギリシアの 密儀宗教ミトラ教の冬至の祭り、またシーザー暦の冬至の日に救い主の誕生日を設定することになったからであると言われる。冬至は夜がもっとも長い日である。この日が過ぎると少しずつ昼が長くなり、春が近づく。イエス・キリストの誕生は、マタイでもルカでも夜であった。キリストが、この地上に生まれ給うた時、又私共の心のうちに臨みたもうた時か ら、「光は闇の中に輝き」(ヨハネ一・五)、希望の日が始まるのである。そのような日として一二月二五日がふさわしいとされたのであろう。

さて、「野宿していた羊飼いのところに主の天使が近付き、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。天使とは、どのような方か。むずかしいところだが、聖書に天使が登場するのは、地上的・此し 岸的な世界と天上的・彼岸的な世界の境界にあって、天上的・彼岸的世界から地上的・此岸的世界への神の介入、啓示が示されるような場面である。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。救い主イエス・キリストの誕生は、まさに「民全体に与えられる大きな喜び」である。しかもこの方は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子である」と天使は告げる。家畜小屋の飼い葉桶―人間の誕生の場としては極限の貧しさ、乳飲み子―究極の弱さ、民全体(全世界の人々)に「大きな喜び」をもたらす方としては、全く意外で考えられないような方である。しかしこれこそ「あなたがたへのしるしである」と天使は告げる。世界の救いはここから始まる。天使がこう告げた途端に、天の大軍が加わって、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ。  地には平和、御心に適う人にあれ」

この場に居合わせたならば、どんなに荘厳な、すばらしい、感動的な場面であったことだろう。人間は常に「栄光」を求めてやまない。政治家も、学者も、スポーツ選手も、いつも栄光を求めて鎬しのぎを削って争っている。しかし、栄光は神に、そして地に住む者には御心に適う人に「平和」あれ!!

救い主の誕生によって今世にもたらされる新しい世界は、このような「平和」の世界である。

天使たちは離れて天に去った。この素晴らしい光景を経験した羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と話し合い、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。かの東方の占星術の学者たちもひと たびは地上の栄光を生きるヘロデ王の宮殿に迷い込みながらも、星の光に導かれてついに幼子のいる家畜小屋を探し当てたことが記されている。幼きイエスは、探し当てなければ出会えないような意外で隠されたところにお生まれになっていたのである。

羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかしマリアはこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らしていた。人々は不思議に思い、マリアは思い巡らした。「不思議に思った」ということは、「信じた」ということではないだろう。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。彼らは、賛美しながら、生活の場に戻っていったのである。

六、心の平和から世界の平和へ

先にも述べたように、今も世界は、「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(マタイ二四・六)にあふれている。昔から今に至るまで、「民は民に、国は国に敵対して」(同二四・七)、悲惨な戦いを繰り返してきた。どうしてこういうことになるのか。このことを思うとき、私はやはり人間の罪の初め、あの創世記三・一―七の物語に思い至らざるを得ない。「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる。」との蛇の誘惑にそそのかされて食べた(創世記二・一六、三・六)時に人間の悲惨が始まったのである。創世記によれば、四章に入ると人類の第二世代カインとアベルは、はやくも兄弟殺しをし、故なく殺されたアベルの血の叫び(創世記四・一〇、ルカ一一・五一)は、今に至るまで全世界至るところで、聞こえるのである。あの蛇の誘惑は、本来神に属するものである善悪を自らの自己中心的な判断で「神のように」占有し、かくして他者を自己の思いのままに支配しようとする自己中心、自己絶対化を意味している。これ がはてしなく人と人との争いを引き起こし、戦争を起こすのである。

マリアは救い主を宿すことを知らされたとき、主をあがめ、神を喜びながら、

「主はその腕で力を振るい、  思い上がる者を打ち散らし、  権力あるものをその座から引き降ろし、  身分の低い者を高く上げ、  飢えた人を良い物で満たし、  富める物を空腹のまま追い返されます」(ルカ一・五一―五三)

と高らかに歌いあげた。人間は何処までも「栄光」を求めてやまないが、天使は「栄光、神にあれ」と賛美した。そして、「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美した。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる 名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ二・六―九)。

神は、御子イエス・キリストにおいて、飼い葉桶にまで、ゴルゴタの十字架にまで自らを低くし、全ての人に模範を示し、罪の赦しによる救いを与えてくださった。この御子を信じ、御子に倣うところにこそ平和の訪れがある。しかし、主イエス降誕の時そうであったように、この道は、神のように賢くなろうと栄光を求めてやまない大多数の人々の目には隠されている。自らの栄光を求めてやまない人間には、「神に(のみ)栄光(soli deo gloria)」を帰することは、もっとも苦手なことである。ただ東方の占星術の博士たちや野原の羊飼いたちにのみ、神はこの出来事をお知らせになり、彼らは探し求めて幼きイエスを「探し当てた」(ルカ二・一六)。力だけが栄えるこの世界では、探し求めなければ、御子に出会い、まことの平和をいただくことは出来ないのである。

ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と記されている。各々の心に御子イエスを信じ受けるとき、平和はまず私共各々の心に訪れるであろう。しかし又、平和はただ私共の内心に宿れば足れりとすべきものではなく、社会へ、世界へ拡げていかなければならない。この世にあっては負けいくさを余儀なくされるかも知れないが、それでも私共が生きる世界にベツレヘムから始まる平和の世界を拡げていかなければならない。主イエスは、「平和を実現する人々 (NRSV. ―the peacemakers)は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ五・九)と教えて下さっているのだから。
(前京都みぎわキリスト教会牧師)