追悼:河合達雄 兄

祈りの水路は深い 野々口 信

ジャーナリストの河合達雄兄は共助会に1990年に入会されている。一方、朝祷会全国連合の機関紙「朝祷」の編集責任者を2000年から2011年にかけて11年間担当された。従って、この間の全紙面を改めて辿って、今まで気づかなかった「共助」スピリットを確認した。

文書製版所(キリスト者政治連盟の事務局、「キ政連」を毎月発行)の中村さんと河合兄が何度も相互にフィードバックしながら「朝祷」の紙面を1日で仕上げる。中村さんは手を使えないが口でパソコンを操作する達人。全国から集まった手書き原稿に河合兄は記号・線・文字を駆使して削除・加筆・修正。落書きのように見えるが、完成した紙面は見事である。これが新聞記者なのだ。原稿を書いた人も文句を言えない。だが、例外があった。原稿のタイトルを変えられて雰囲気が変わってしまった、という抗議。プロの困惑を身近に感じた。2年間ほど編集委員として、校正の手伝いをした。河合兄は編集責任者の後継を私に強制し、後の編集の助言もなく辞任された。河合兄はアナログ人間である。パソコンを使わない。私はAdobe の編集ソフトを独学し、「朝祷」の様式が変わるので、編集委員と相談をしながらスタート。PDFファイルに変換して印刷所にメールした。とにかく月刊であり続けられたのである。

大阪で全国大会があり、「朝祷」についての報告の時、河合兄が発言した。「朝祷」の題字の下の聖句がなくなっている、何故?

私は編集責任者の権限内のことだと思って沈黙した。後に確認すると、2001年10月「朝祷」の題字の下に聖句が加わる。「剣を打ち直して鋤となす。」(イザヤ書2・4)2003年4月、北東アジアの危機を感じて、聖句の変更。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。」(マタイ5・9)。

過去の「朝祷」は全部パソコンに保存している。「あとがき」や紙面の空白を埋めたであろうと思われる記事、河合兄の言葉をランダムに拾ってみる。「おひとりおひとりの人生を背負いぬいて下さった主のいつくしみ。」「祈り抜け、祈りなさい、祈ってもらいなさい、互いのために祈りなさい。」「大丈夫ですよ、祈っていますから。」(生き返らせる一声をかけられる)「自分自身が砕かれて、こころを一つにして祈る」。「祈りとは、神の判断をひたすら心の耳をすませて聞こうとすること。」「祈りの火種が与えられる。」「深い心の闇、痛みにどう切り込んでいるのか。」

河合兄が京都から東京の新聞社に転勤されたのが1968年。社宅の近くに池袋西教会(熱河宣教で知られる福井二郎牧師が牧会)があった。新聞社の定年が1988年。その後、大学教員。私の方は神奈川県秦野市に来たのは1991年、河合兄が世話人代表である池袋朝祷会に最初に出席したのは2005年頃。朝祷会全国連合で色々な役割を私は経験するが、深く考え行動する河合兄の存在が一歩先にあった。青年時代、京都の洛陽教会の伊藤昌義牧師より受洗。河合兄は1956年、私は2年後。年齢差は6年だが、大きな精神的支えだった。

京都の島津製作所の中に分析機器を製造する工場がある。1957年に入社して配属された職場である。北白川教会の橘芳實博士が京都大学物理学を卒業後、「光学器械の開発」のため1934年入社。奥田成孝牧師の聖書研究は月一度、会議室で誰でも自由に聞くことが出来た(『九十年史資料編』から「工場の一隅から」1935年、「工場での聖書研究会」1954年)。

河合兄は京都大学在学中に内村鑑三の書物を読んだ。どういう状況だったのか、この時期の思考回路を詳細に知りたいと思う。活動の源流がそこにあると思うからである。河合兄から奥田先生の名前を一度も聞いたことがない。職場の聖書研究会で内村鑑三や熱河宣教などの話は聞いた。どうしてなのかと頭の中で交差してしまう。私の青年時代の読書体験を少し述べる。ドストエフスキー全集を全部読み切り、魂が共振し生き生きした。小さなキリストが私の内に宿った。この体験から、内村鑑三全集を購入して、同様にチャレンジしてみた。ところが、どの切口から読み進めても私にとっては固くて、短時間では溶け込めない。これは個性なのだろうか。奥田先生に「全集をよんでいるのですが……。」「ほほう、単行本も味があるよ」の一言。

キリスト者の社会的な発言や行動の必要は、内容はともかく河合兄から学ぶことは多い。主体的な深みから独自な視点で、と言っても、人間の魂にかかわることは、誰にとっても容易なことではないはず。

朝祷会の司会は聞き上手、まとめ上手であった。毎週変わる奨励する教職者への配慮。

その多様な祈りの輪の中で、私の人生を再度模索することになった。秦野市の田舎から都心の池袋へ、早朝2時間はかかるため、時々、都会の空気が必要だと感じた時、暗闇の中を飛び出すのである。

河合兄の紹介で2008年度と2009年度、基督教共助会夏期信仰修養会(於:富士箱根ランド)に参加した。私の自己紹介を聞いて、表弘弥兄が故橘芳實氏追悼文のコピーを送ってくださった。和田正氏の文中、「橘さんは両手を畳の上について祈って居られたようです。橘さんが祈られると畳の振動がこちらに伝わって来るのです。全身全霊を注ぎ出し、力をこめて祈って居られた事を思います……」とある。職場の聖書研究には深い背景があったのだ。

河合兄の年賀状、2015年で「難病を持つ身になりました」。続いて2016年で「パーキンソン病をわずらう身となりました」。試練の道を行く。2018年で「自宅近くの特養施設で過ごしています」。2019年で「特養の生活にも慣れてきました。肉体が衰えてきましたので来年から失礼」。どの年の年賀状にも聖句があり感謝と祈りがある。千葉県八千代市から、支えられながら、杖をついて少しずつ歩を進めていた河合兄の姿が、私の頭の中に刻印されている。

昨年の初春、特養施設の河合兄の部屋は明るく広やかだった。壁には見慣れたジャンパーが整理されて吊るされている。ベッドの傾きを変え、ご家族がスプーンでスープを口の中に入れる。私はのどが動いているのを確認していた。目は見えず、自力で身体を動かせない状態だ。「朝祷」誌(2006年4月)に編集委員の今村桜姉による「編集あとがき」がある。ここに引用させていただき、河合達雄兄を偲びたい。

「映画『マザー・テレサ』を見ていて、いつの間にか、ありし日のマザー・テレサに会い、語りかけられている思いになりました。映画の感動が残っている中で、マザー・テレサの葬儀に参列した人の書かれたものを読みました。キリスト教だけでなく、イスラム教、仏教、ヒンズー教などさまざまな宗派の皆さんがそれぞれの言葉、流儀で祈りをささげていたということでした。死んでなおバラバラになっているものを一つにするマザー・テレサの存在を思わされたことでした。朝祷会に集う私たちがめざしている一致の究極の姿がここにみられるのではないでしょうか。いろいろな宗派、教派の多くの人々とともに平和を祈ることができますように。」

(朝祷会全国連合小田原朝祷会・日本基督教団小田原十字町教会員)

感 謝      妻:河合 翠

河合達雄は、2019年5月28日早朝、静かに、眠るように天に召されました(パーキンソン病による誤嚥性肺炎)。87歳でございました。

長い間、皆様と主の家族としてお交わり頂き、深く感謝いたします。

達雄は、中国の奉天で呉服商を営む恵まれた環境の中で生まれ育ち、戦後一年ぐらい経ってから、日本に引き揚げました(中学2年頃)。その頃姉と妹を亡くし、日本での戦後の一変した現実はどんなに大変だったことでしょう。また、達雄にとって神様との出会いがなかったらどうなっていたでしょう。

苦難の中、アルバイトをしながら京大に入り、飯沼二郎先生の『熱河宣教の記録』、また内村鑑三先生の『無教会主義』の本を読み、ある時、京都御所の前の日本基督教団洛陽教会(新島会館の隣)に立ち寄りました。その頃、毎日新聞大阪本社に勤務していた達雄は、洛陽教会の伊藤昌義牧師から、「新聞記者は、実際の教会を知らなければ」と洗礼を勧められ、1956年に受洗しました(同年私も高校2年生で同牧師より受洗しました)。

達雄は、いつも「神様第一」の生活で、東京に転勤になると、飯沼二郎先生の『熱河宣教の記録』の中の福井二郎先生が池袋西教会で牧師をされていることを知って、さっそく転会いたしました。福井先生と達雄は親子のよう。娘たちは孫のようにかわいがっていただき、土曜日の朝祷会には、板橋の毎日新聞社宅の時代から千葉に自宅を移してからも2時間かけて池袋西教会に通いました。福井先生の昇天後、池袋西教会は二代三代と牧師が代わり、達雄も家の近くの教会に籍を移しましたが、池袋西教会の朝祷会通いは特養ホームに入るまで続きました(召天4年ぐらい前まで)。

今頃は、天国で福井先生はじめ、多くのすばらしい信仰の先輩方と祈りを共にしながら、天国と地上を自由に飛び回って、地上の世界を見守っていることでしょう。

ちょうど良い時に神様は達雄を天国籍にうつしてくださったと感謝しております。

父の想い出長女:大谷眞理

パパが、死んじゃった。

私は小さいときから父親っ子だった。

年子の妹に母を取られた私は父の懐で育った。父は早朝から大きな声で詩篇を読み、祈る。そして私と妹を起こして「さぁ、走ろう」とジョギングに誘う。惰眠をむさぼる私と違い父に従った妹は、その後アスリートに成長した。早く帰宅できた夜は『大草原の小さな家』を読み聞かせてくれるのだが、途中から父のいびきに変わることもあった。

私は結構ヤンチャだったらしい。近所の銭湯から下駄箱の鍵を全て持ち帰ったり、男の子を転ばせたり。そんなときは父にお尻を叩かれた。でも「マリは本当はいい子だ」と言い続けてくれたので、私はそう思ってきた。

年初めには必ず抱負を聞かれた。あるとき私が「抱負なんかない。目標を立てても失望に終わるから」と言うと、「どんなときでも希望は持たないといけない」と諭された。

私は父の「神さま。ありがとうございます」で始まる祈りが好きだった。残念ながら、父のような信仰を受け継ぐことはできなかったが、オルガン奏楽という形で教会につながり、キリスト教学校で英語教師として奮闘する毎日を送っている。

毎年、誕生日のカードに「笑いの絶えない家庭を築いてください」「助け合って人生の宿題にチャレンジしてください」と書いてくれたパパは、もういない。

わたしは、哀しくてたまらない。

父からの手紙次女:河合美香

年齢よりも若く、歩く速度も速くて元気印だった父。朝早くから書斎で仕事し、礼拝の他に週に何度も教会へ行く父は、幼い頃の私にはとても大きい、怖い存在でした。それでも私が中学生の頃から始めた陸上競技の試合に行く時は、自転車に私の荷物を積んで駅まで送ってくれました。思い起こせば、私がランニングを始めたのは、父が日課にしていた朝のジョギングに、時に泣きながらでもくっついて行ったことが始まりでした。

離れて暮らすようになってからも三人姉妹の中で自由奔放な私のことを一番気にかけていたかもしれません。生前、帰省して療養施設を訪ねると、父の体の動き、頭のはたらきが少しずつゆっくり、そして確実に低下しているのがわかりました。父の眼に涙がありました。話を聴き、相談にのってやりたいと思ったのかもしれません。最後まで強くて優しい父でした。

先日、以前、悩んでいた頃に父から贈られた『旧約一日一章』の中に、その時には気づかなかった手紙を見つけました。

「美香ちゃん こんな聖書の言葉を贈ります。毎朝、詩篇を読み、榎本保郎先生の『旧約一日一章』を読んで祈り、苦難のなか、道をひらかれてきました。美香ちゃんもそのようにして喜びと生きる力を与えられてほしいと思います。」

私は、これまでに本当に多くの祝福を受けてきましたが、19歳の時に受洗して以降も教会生活は劣等生、今も未熟で信仰が足りません。父の永眠後、空を見上げることが多くなりました。