佐久学舎で与えられたもの 光永 豊

佐久学舎聖書研究会に初めて参加し、原稿依頼を受け、歩みを振り返る時、決して自らの力によるものではない、不思議な導きを感じます。そもそも佐久学舎を詳しく知ったきっかけは、基督教独立学園高等学校で職員を務めていた時から続く、友との繋がりによるものでした。以前から佐久学舎の存在を知ってはいたものの、その友人は、決して私を誘おうとはしませんでした。だからこそ、誰かの意志ではない、自らに与えられた思いに導かれ、参加することができました。そのような友を与えられていることに、まず感謝をしつつ。

自発的に、友と聖書を読むことを求め始めたのは、ここ一、二年の話です。幼い頃から聖書が傍にあった故、親の信仰から抜け出すまでに長い年月が掛かりました。信仰だと思い込んでいた信仰が壊され、与えられているものを素直に受け取ることができなくなっていました。佐久学舎聖書研究会に参加したのは、人間関係に躓き、悩み、苦しんでいる時です。訳が分からなくてもいいから、一歩を踏み出し、訳の分からない先を求めたい。壊されたものを再構築している時、気が付けば、友と聖書を読むことへの求めが、次第に強くなっていました。

佐久学舎で自らが体験した「聖書研究」は、「聖書の言葉の奥にある心、精神、魂のようなものを探し求める」聖書研究であったように思います。発表される方のおひとりおひとりが、真摯に聖書の言葉と向き合い、わずか10分強の発表のために、時間を労する姿。その発表に耳を傾け、自らも己と聖書の言葉に向き合う姿。早天祈祷に始まり、賛美と祈りをもつこと。食と住を共にし、生活を営むこと。そこから紡ぎ出される対話の連続は、決して人の努力や意志のみでは成しえない、人格に触れる交わりがありました。いや、そもそも人格とは何か。自分の意志や努力で作り上げられていくものなのか、それとも、自分の意志や努力によらず、ただ一方的に、その人に備えられたものなのか。少なくとも、私が見せられた人格は、自分の意志や努力を超えたところから、与えられたものでした。

忘れもしない、2019年8月21日の、聖書研究会。ローマの信徒への手紙14章と15章に出てくる、「弱さ」、「強さ」。思いや信仰が与えられたものなら、どうして同じ神様から出ているものに、「弱さ」、「強さ」を評価できるのだろうかと、疑問を抱きながら読みました。言葉が言葉を呼び、対話が対話を呼び、それぞれの思いが連なっていく中で行きついた先は、「自分自身への裁き」でした。新共同訳聖書の14章22節にあった「自分の決心にやましさ」という言葉。後でディスカッションを思い出しながら、じっくり原文を見ると、「彼がよしとする、承認する(何故か三人称単数)ことによって、自分自身を裁かない、咎めない」とも見えるような文でした。口語訳では、「自ら良いと定めたこと」、新改訳では、「自分が、良いと認めている」。いずれの訳も、「彼がよしとする、承認する(δοκιμαζει)」の主体が、「自分(一人称)」に変わっています。何故このようになったのかは、専門家ではないので分かりません。一体誰が、何を「よし」としたのか。誰が、何を「承認」したのか。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(11章36節)ならば、神から出たものに「弱さ」、「強さ」を付加するのは一体誰なのか。そして、神から与えられた自分や他者を裁いて引き裂く自分自身とは、一体誰なのか。そこには、自分自身を裁いてきたことに、涙をもって、うめきながら応答する友の祈りがありました。

私は今まで、自分に自信がありませんでした。厳密に言えば、かつては根拠のない自信がありました。自信に根拠がないことを知った時、傲慢になって横暴に振舞う自分が嫌で、人に遠慮をするようになりました。しかしそれは、上辺だけの話。実態は、与えられたものすら否定し、踏みにじり、引き離し、壊し続ける存在でした。人の怒りをわざわざ引き起こし、嫌われることに安心を置き、互いに愛し合える、祈り合える友の存在を、認めようとしてきませんでした。これまで閉ざしてきたものを開くことは、容易ではありません。予想外、計画外の未来への、恐れがあります。

しかし、佐久学舎で与えられた事実は、眠っていた心を開かせてくれました。会の支え手の労、限界を超えた受け入れ、日々の糧を提供して下さる方々、そして、ひとりひとりの名を呼ぶ、友の祈り。与えられ、もっと分かち合いたいと願う心がありました。受け取る勇気が必要です。未だに拒絶してしまう心、閉ざそうとする心があります。壊し続けて、ごめんなさい。与えて下さって、ありがとうございます。この地上で、苦しみ生きる時の中で、受け取り、分かち合い、祈り合うことを繰り返し、生かされている世界を共に全うできたら、どんなに幸せなことか。

(東京神学大学 職員)