【戦前版『共助』第五回】《斷片三つ》―たよりにかへて― 小塩 力

嘗て左翼󠄂のすぐれた謀將として知られ、ちかく明治最大のロマンティケルの一人といはれる天心に鼓舞されて文化日本論をものした淺野晃がかういつてゐる。「……それ故、われわれは、周󠄀圍を顧慮することなく、獨りの途を獨り歩めばよい。われわれは世俗から一見あまりに遠くかけ離れることを少しも恐れることはない。われわれは、自己の途を、そういふもので計るのではなしに、われわれの内なる民族のカオスへの獻身によつて計ればよい。

われわれは自己の自覺を日本の自覺と信ずる故に、獨り歩むべきである。民族のカオスを信ずる故に、他の獨り歩む者らを敬すべきである。われわれは、また、幾多の克己と忍耐とを要求される。が、それらは凡て、いつの日にかわれわれ東洋の歌が、一大合唱となつて、人間の世界の天高く響きわたらんがためにである」と。

福󠄁音にとらへられ、宣教の使命に鼓舞されてをる筈の我々に、これ程の確信と鮮々しい幻もないとは恥づかしい。勿論、愈々罪の深いところに恩寵もいやますことを身を以て證せねばならぬものとして、我々の信と望とを縫つてゐる痛傷の基線をおもはぬではない。アジアの理想と幻の歌は、我々に於いては、必ず變曲せられて、罪の赦の感謝に主題をゆづらねばならぬと信ずる。にも拘らず、我々は憂へる。我々の鈍さと怠りの故に、時代の流の激しさについてゆきかねる爲に、我々の讃歌がか細く、我々の幻が脆いのではあるまいかと。否!と、我々は、十字架と復活の主のもとに立つて、眞に叫びたいのであるが。

 * *

暇を得て、街のはづれの丘にのぼつた。淀んだ池がある。睡蓮が白・赤・黄と咲いてゐる。蒲の穗が豐かにふくらみ初めて、太古の趣を感ぜしめる。中華人某がここを小湖天と名づけた由。丘の麓の竹群がすばらしい。地味と肥料のせいで色・形・撓やかさに相異はあるが、一群として風にそよいでは清爽の氣を發する。中腹から上に、巨巖大石が默坐してゐて、これを圍んで杉、樟、そして松が。松でくぎつて碧空である。臥して唖の如く、漂泊の雲をみてゐると、飽くことをしらない。竹林の清々しさが疲憊した身を包み靜めてくれる。ああああ何といふ懷かしさであらうか……ふと聲にもれたとき、追はれる者のやうに、下界におりた。

Πάντα μοι ἔξεστιν  λλ’ οὐ πάντα συμφέρει. πάντα μοι
ἔξεστιν  λλ’ οὐκ ἐγὼ ἐξουσιασθήσομαι ὑπό τινος.

(前コリント六・十二)

 * * *

てうど今頃であつたらう。輕井澤でえらくいい修養會があるから是非行かう、と鈴木淳平が強ひるやうにしてさそつてくれた。篠ノ井の驛で待つ間、暑い陽なかを散歩して、學童の野薔薇の歌などに感傷をもよふしてゐると淳平先生は木株のやうに歩いていつた。大城俊彦のほか松本教會の人々が數名別行動で參加した。輕井澤一帶の風景は心に沁みた。修養會の意圖の大きさと嚴しさとにうたれた。まだ一燈園の魅力が仄かに自分の心を包んでゐる頃だつたので何か異邦に迷ひこんだ氣持もした。同行の誰かと、こりやあ僕等の來るところではなかつたなあ、と言ひあつた記憶がある。それは會の全體を通じて、青年學徒に傳道者たるべく迫り訴へることを、主眼としてゐたからであつたらう。

それでも、田舍者らしくおどおどしながら植村正久・洋行直前の高倉徳太郎其他諸先生の講演を努力して噛るやうにして聞いた。ただ全員の野外親睦ティー・パァティーには、ぎごつちなくて、どうにもかたがつかなかつた。淳平先生だけは、それでも、後年の外交的素質の片鱗を示しかけてゐたやうだつた。

第三日であつたか、傳道者となつた經驗を語る、といふ意味の時間があつた(これは毎日あつたやうにも思ふ、記憶が明白でないのだが)。この時はじめて森明先生の風貌に接した。

ややピッチの高い、モノトーンともいふべき聲音が異常な(實際僕は異常と感じた)壓力をもつて僕の魂にぢかにおしよせるのである。僕は、少し大げさにいへば、机にしがみついて、滿面朱をそそいで迫るこの威壓に抗してゐた。何をいはれたか、少しも分らない。殆ど理解を絶して、ただ焔のやうなものがあふり迫つてくるのであつた。後で考へてみれば、先生が召命をうけられた經路と、傳道者たるの光榮と歡喜と使命とを、説かれたのだと思ふ。しかし僕にはその時、ただ重壓と畏怖とが感ぜしめられた。

僕は、このお話が機縁となつて信者となり傳道者になつた、とはいはない。しかも生涯に忘れ難い出來事であつた。そして、今、あらためて傳道者の光榮がいかばかりであるかをおもふのである。その業の勞苦、その果の敗慘にも拘らず、僕如きものも優秀な學徒青年の前に敢へて立つて、是非とも傳道者たれと訴へざるを得ない心地がする。極言すれば傳道者でなければともに談ずるに足らぬ、とさへ思ふのである。

この思ひ出の修養會に叫ばれたときの先生の齡を、自分は恥づかしくも越えたらしい。

─一九三八・七・二〇─

 

略歴(おしお・つとむ)

一九〇三(明治三六)年 三月一六日、群馬県藤岡にて小塩高たかひさ恒・うたの長男として生まれる。
一九一九(大正八)年 府立四中四年修了。松本高校入学。
一九二二(大正一一)年 十二月、植村正久牧師より受洗。
一九二六(大正一五)年 東大農学部卒業。東京神学社で勉学続行。高倉徳太郎に師事。基督教共助会に入会。

一九二八(昭和三)年 東京神学社修了。松江教会赴任。
一九二九(昭和四)年 加藤れいと結婚。
一九三〇(昭和五)年 佐世保教会に赴任。翌年長男節誕生。
一九三三(昭和八年) 長女あつみ誕生。
一九三七(昭和一二)年『希のぞみ望の清あした晨』出版。
一九三九(昭和一四)年 佐世保教会を辞して上京。日本神学校、恵泉女学園、青山学院神学部、講師。
一九四二(昭和一七)年 井草家庭聖書研究会設立。
一九四七(昭和二二)年 日本基督教団井草教会設立。牧師。『福音と時代』誌主筆。東京神学大学、津田塾大学、農村伝道神学校講師。
一九四八(昭和二三)年 『代祷』『時の徴』(説教集、福田正俊と共著)出版。翌年『新約聖書神学辞典』編集。
一九五〇(昭和二五)年 日本聖書学研究所設立。所長。
一九五四(昭和二九)年 『高倉徳太郎伝』出版。
一九五五(昭和三〇)年 『聖書入門』(岩波新書)出版。
一九五八(昭和三三)年 六月一二日朝、喘息発作で急逝。五十五歳。没後出版、『コロサイ書』(注解、一九五八、教文館)、『キリスト讃歌』(一九五九、新教出版社)。没後編集、『小塩力説教集』全三巻(一九七七)、『小塩力神学論集(一九七八)、〈いずれも新教出版社〉。