【戦前版『共助』第四回】魂の人―森 明先生 奥田 成孝

去る3月5日の記念會の席上で佐伯先生が森先生を世々の聖徒の誰かれに思ひくらべられまして、アウグスチヌスのやうな型の方であつたと云へるのではないかと申されましたが、確かにさう云ふタイプの方と肯かれる面があると思ふのであります。其のやうに思ひますと、深さに於ても勿論でありますが、幅も豐かさも缺けて居ります私の如きものに、深く豐かな師を語る事は出來ないやうな感が深く致すのであります。結局私の語らして戴きますところは、私の小さい魂にふれた森先生と云ふ範圍を出でないであらうかと存じます。それは勿論先生の全貌でもないでありませうし、或は歪められたものでさへあるかも知れないと思ふのであります。併しいと小さい弟子である私の魂が先生にふれ、先生の信仰とその人格、其の愛と友情を通じまして、それを手がかりとしてキリストの人格と其の愛の交りの中に入れられ、兎も角も失せたる魂が人生に望みを見出だし、今かく感謝を以て生きて居ると云ふ事實だけは是は誰が何と申されやうとも否定できない事柄であるのでございます。

果してこのやうな席上に於きまして此のやうな限られた角度から先生に就いて語る事は許される事か否か存じませんが、今日は後に諸先輩が控へて居て下さる事でもありますので、勝手を許していただきたいと思ふのであります。

題して魂の人森 明先生と致しました。先に述べさして戴きましたやうにアウグスチヌスに比せられべき先生は去る3月の記念禮拜の節の淺野先生の御説教にも説かれてありますやうに其の中心には福音的信仰に立つ嚴としたものがあられた事は申すまでもない事でありますが申し樣によつては中々多面的な感を與へる方であつたと申すことか出來やうかと思ひます。御承知のやうに豐かな思想の人でありました。又抱負經倫湧くが如き方でもあつたと云へるのであります。而も單に思想を持ち又計畫性に富んで居られたと云ふだけでなく人を率ゐて、これを實現するの人格力量をも備へてをられたと思ひます。若し先生をして今日あらしめるならば(38歳で逝くなられましたから今お出でであれば58歳になられるわけです)、日本のキリスト教界を率ゐ得るの存在となつて居られたとは必ずしも私共先生を知れるものの贔屓目のみではないであらうと思ふのであります。

其のやうな先生でありながら私のやうな失せたるいと小さき魂の前に立たれましてはどうでありませうか、先生の用ひられた言葉によるならば愛の自己制限とでも申しませうか、失せたるいと小さき魂に直面されたと申しますか、全面的にふれて之を相手とされると申しますか、兎に角先生と語つて居りますと、私の小さい魂は實に生命の躍動を禁じ難い所の思ひを深く與へられたことであつたのであります。

世の中には中々思想的に造詣の深い方でありますが、其のやうな思想的内容の域までこちらの魂の問題が伸び切つて居らない者にとりまして口の入れやうがなく、ただ語られる所を拜聽する外はないと云ふやうな感を與へられる場合がよくあるものであります。然るに先生の場合に於きましては失せ、疲れた所の魂が全面的に滿たされると云ふやうな感をうけるに止まりませず、自分も奮發して先生に導れて思想の問題にも自分なりにも1つ思ひを致してみたい。又先生の抱負經倫の1端にも携らして戴きたいと云ふやうな意外な望みが自分の中に湧き出て來る經驗を與へられた事であつたのであります。その意味に於て私は眞に魂を生かす人であられたと云ふ感を深く覺えるのであります。

先生は果して此のやうな人格の世界の消息を、何處から得られたのであらうかと云ふことであります。勿論先生には天與の賜として人を入れこれを生かす器の大きさがあられたとも云へると思ふのでありますが、併しその天與の賜を眞に生かし、深きものとして大成せしめたものは申すまでもなくキリストの贖ひの惠みに生られると共に主がその接する魂に對してとられた御態度、それに實に深く注意を向けられて、その消息を探ぐり求められ、單に探り求められただけでなくしてそれを血みどろになつて自らその跡に從つて生きられたさう云ふ所に先生の深い所があつたのではなからうかと思ふのであります。先生の文集の1節に「キリストの愛は人間性を根柢より覆して新にする、イエスに對して純粹の態度を取ると否とが根本の問題である。されば血塗になられし此のキリストが如何に近く在し給ふか、自らキリストの御惠に溢るる體驗を以て勝利の生涯を完了したい。かよわいイエスは大祭司となられた。我々も亦さうあるべき筈だ」斯う申されて居ります。其のやうな意味に於て敢へて先生の人格的態度と云ふものは必ずしも先生の獨創でも工夫でもないと云ふことが言へようと思ひます。併し私共イエスに從つて多少でも其のやうな人格的な世界の消息が分るにつけましても、それを私共の人格生活に生きるとなりますと、實に容易ならざる事だと云ふ感を深く致すのみでありますが、實に先生はその點をよく祈り戰はれ血塗ろになつて自らを主の前に聖別されて行かれた方であつたと云ふことを非常に深く私は思ふのであります。

私は先きに先生の信仰とその人格、その愛と友情とを通じてそれを手がかりとして主イエスの人格とその愛とを理解し、その交りの中に入れられたと申しましたが、確かに私にとつてはさうでありました