タブロイド版(戦前版)『共助』誌と私 井川 満

1 タブロイド版共助誌との出会い

私がタブロイド版共助誌の記事に最初に接したのは、未来社から出版された澤崎堅造の著書、『キリスト教経済思想史』(1965年)/『新の墓にて―キリスト教詩文集』(1967年)においてである。これらの著書刊行は、澤崎堅造の生涯に深く感銘した飯沼2郎が、澤崎堅造を広く世に紹介せねばならないと思い編集・刊行の労を取ったことより実現したのである。

前者は、タイトル通りキリスト教が経済思想にどのように関わったかを研究した澤崎の論文を集めたものである。ルーテル、カルヴァン、聖トマス、アウグスチヌスが、それぞれが生きた時代に発生した経済問題にどのように考え、かつどのように行動したかを研究したものである。う1つの著書『新の墓にて』は副題「キリスト教詩文集」が付けられている通り、信仰にかかわる記事が集められており、加えて手紙の類も載せられている。これらの著書に『共助』誌に掲載された記事が多数含まれていた。今回の選集に収録予定の記事「曠野へ」は『新の墓にて』に載せられている。

このようにして私は実際にはタブロイド版『共助』誌掲載記事と出会っていたのであるが、当時の私はタブロイド版『共助』誌との出会いという意識は全く無かった。私がタブロイド版『共助』誌とハッキリと意識しつつ出会ったのは、森川静子さんが東京神学大学付属図書館所蔵のタブロイド版『共助』誌のマイクロフィルムから、原寸大の紙コピーを作成してくださったことに依ってである。このコピーの綴じ合せ1揃いが北白川教会にも保管されることになった。これを機会に京都共助会の月例会で、タブロイド版『共助』誌の各号から記事を選んで紹介するという企画が始まった。私にも紹介発表の順番が回ってきたとき、第13号掲載の山本茂男「森先生を始めて識りし頃」という記事を取り上げた。この記事は、タイトルの通り山本が森明を始めて知ったころの思い出を綴ったものである。ウツ病状態に陥り、学業に関心をもてずかつ教会からも遠ざかっていた山本を森明が下宿に訪ねてきた。そして森は語りかける、「人生は寂しいね!」と。そして「……だが孤独は罪を孕むよ」と。これらの言葉は山本の胸に深く響くと共に、心臓を貫いたと山本は語っている。ここを読んだとき、森明が私に「人生は寂しいね!」と語りかけられたような思いに包まれたことであった。

京都共助会月例会でタブロイド版『共助』誌掲載記事を読んでいったことが1つの切掛けとなって、『奥田成孝先生共助誌掲載記事選集』を北白川教会で作ることになった。私もその刊行に携わった関係上、奥田の記事の全てに目を通すことになった。当然のことながら、タブロイド版『共助』誌のページを何度も繰ることとなった。奥田の記事のうち私の好きなものの1つは、「1つ魂を求めて」(1941年6月号)である。ルカ伝第5章1節から11節に関して、すなわちイエスとペテロとの出会いの場面の記事である。イエスは群衆に押されるようにして湖岸で網を繕っているペテロの側にやってきて、ペテロにイエスを乗せて湖に少しばかり漕ぎ出すよう依頼した。イエスのこの求めによってペテロはそれまで心の半ばを占めていた網の繕いの手を止め、イエスを舟に乗せた。そのためペテロはイエスと2人きりになり、必然的に専心イエスの言葉を聞くことになった。ペテロはイエスを助けた如くに見えながら、実はペテロを永遠の命へ導くイエスの慮りであった。これを読むと、森明と奥田成孝との出会いの様子が彷彿として浮かんでき、そして更にイエスと奥田との出会いを思わずにはおられない。

2 今回の編集作業に携わって

今回飯島委員長が私に与えられた仕事は、奥田成孝、澤崎堅造、堀信1のタブロイド版共助誌に掲載されている記事を読み、選集への収録候補記事を執筆者それぞれに3つを目処に選び出すことであった。

私は最初に、3名の方の記事一覧表を作成したが、それぞれの方の関心の有り様および有り様の変化も見えてくる。これらの候補者の記事を読んでの感想を短く記してみる。

・堀 信一

私が堀に興味をもったのは、山口高校を卒業して大学進学後に共助会員となった方が多いことに依ってである。彼は山口高等学校の英文学の先生であり、また彼は学生たちとの集まりを持っていた。共助誌にキリスト教文学者についての記事を多く執筆すると共にキリスト教的な詩の翻訳も行っている。これらの記事では、キリスト教文学者たちがこの世界を生きるにおいて味わった苦労が丁寧に紹介されている。このような堀の存在が若き学生を引き付け、共助会に結びつけたと思われる。

・澤崎堅造

澤崎の記事一覧を眺めると、彼の関心が時間と共にどのように変化したかが顕著に現れている。経済学の研究に励みながら、自分の全てをかけるべき場所を懸命に探してきた跡を見る感がする。先にも触れたが、キリスト教経済思想という日本において全く未開であった分野の研究を独力で始め、短い期間のうちにあれだけの研究をやり遂げた澤崎の能力と努力には目を見張るものがある。ルーテル、カルヴァンを始めとする偉大な先人達がそれぞれの時代の中で生じてくる課題に如何様に取り組んだかを調べている。先人たちのその取り組みが新しい時代を切り開いたのであるが、澤崎はその跡を丁寧に辿っている。彼らの取り組みを解き明かすことにより、キリスト者として、日本社会の中に確りと生きるための基礎を必死で築いていたように私には見える。

それらの研究を行いながら、自分の全てをかける場所を探しつづけ、遂に神の召しを受けて中国熱河へと渡っていくのである。今回、選集に載せるべき澤崎の記事の候補の1番に「曠野へ」を選んだ。ひたすらに神の言葉を聞き届け、ただイエスのみに従って何処までも行きたいと願った彼の姿勢が良く現れている記事であったからである。私に特に印象深かった箇所を引いてみる。

「曠野とは如何なる処か。私の興味は次第にここに集中してきた。調べてみると、曠野とは原来『語る』と云う動詞から出ている。声の有る処という意味になろうか。それは如何なることか。曠野とは人無き処であると誰もが考えるであろうに。私は不思議に思ったので、更に調べ更に考えた。(中略)それは神語るところ神の声の有る処と云う意味である。神の声である」

 ・奥田成孝

記事一覧を眺めるだけで、奥田の生き様がハッキリと窺える思いがする。信仰に従い一筋の道を辿り、それ以外のことを全て切り捨てて歩み通した生涯を示している感を受ける。私は選集への候補として「魂の人 森明先生」と「京都支部創立満10年を迎う」を挙げた。

「魂の人 森明先生」は1944年7月号に掲載されたものである。「森明先生召天20年記念行事」のなかの1つとして開催された記念講演会での講演内容である。この頃は既に太平洋戦争における日本の敗色が濃厚になっており、生活全ての面において不自由になっていた頃である。実際そのころの編輯後記を読むと、印刷用紙の入手をはじめ諸種の作業が思うに任せず、期日内の発行が難しくなったこと、また頁数の削減や購読料の値上げなどが何度か記されていることからも『共助』誌発行も極めて困難となっていたことが覗える。このような戦時下にあって、よくぞこのような集会が開けたものよ、と私は驚きの思いを持たざるを得ない。

奥田はこの記事で、真に魂を生かす人であった森明を静かに紹介している。記事の終わりあたりにその時代を映している部分があるが、記事のほとんどを使って人と人との真の出会い、その出会いを通しての神と人との出会いを記している。極端な国粋主義と暴力の嵐の真只中で、人のあり方の根本をかく純粋に静かに語り切る信仰の確かさを私は思わざるを得ない。当時の日本の狂度を測るために当てられた定規(rule)であったとの感を私は持つ。

 3 終わりに

昨年8月開催の編集会議において、飯島委員長から編集方針変更の提案があった。それは選集を第一部と第2部に分けるという案であったが、他の編集委員も即座に賛成した。私自身も担当の候補者の記事を読みながら、最初に立てられた編集方針では何か物足りなさを感じていた。どのように対応すべきは分らなかったが、飯島委員長の案に依れば私が感じていたことは解決される。森明の「濤声に和して」を最初に乗せることは計画当初に決まってはいたが、第1部は、この「濤声に和して」と初代会員たちの「森明との出会いの消息」を集めて構成することになった。第2部は「先達たちの代表的論稿」を集めることに決まった。

私にとって興味深かったのは第一部の「森明との出会いの消息」であった。弟子たちそれぞれの個性が豊かに現れていて、記事を比べあわせると大変に面白い。1人ひとりの個性を大切にしつつ、如何にかしてイエス・キリストに出会わせねば已まない森明が立体的に浮かんでくる。様々の個性を持つ12弟子を友として対したイエスの姿に重なってくる思いがしてくるのである。