私の歩み~共助会との出会いはすでに用意されていた~木田 洋子

一、子どもの頃―見附教会、イエス様との出会い

私はキリスト教とは無縁の家に生まれ育ちました。父は、祖父が始めた洋品店の二代目で商店を新潟県見附市で経営していました。近所に日本キリスト教団見附教会(当時は伝道所)があり、松原達二先生が開拓伝道して牧会されていました。ある時、自宅のお店の前で近所の子供たちと遊んでいたところに、松原先生の奥様、道子先生が「日曜学校にいらっしゃい」と声をかけてくださったのが、教会に行くきっかけとなりました。多分四、五歳の頃だったと思います。私は毎週の日曜学校が大好きで、イエス様のお話を聴くことや、オルガンの伴奏で讃美歌を歌うことなどすべてが楽しく、また当時日曜学校はたくさんの子供たちで溢れていましたから、みんなで日曜学校の後、教会の裏山に遊びに行くことが楽しくてなりませんでした。

小学六年生の冬、家の洋品店が倒産しました。子供心にも大変なことが起きたとわかりました。倒産を知ったその日はちょうど日曜日でした。この日日曜学校に行って、「神様、お父さんとお母さんを助けてください」と一生懸命祈りました。この困難を支えてくださるのは神様しかいないと強く思いました。この出来事をきっかけに、母も教会に行くようになりました。そして私が中学二年生のペンテコステに、母と一緒に洗礼を受けました。

松原先生は普段から、子供たちにはとても優しい方でしたが、礼拝の説教はいつも、キリスト者として生きる覚悟を迫られるものでした。他の誰でもない私の罪のために孤独と苦痛の中十字架にかけられたイエス様、この大いなる恵みを受けて、あなたはどう生きるのですかと、胸を突いてくるような問いかけがいつも迫ってきました。万難を排して日曜礼拝を守る覚悟、イエス様の生きざまを身に受けて生きる覚悟、私は襟を正される思いで真剣に受け止めていました。

 

二、敬和学園高校時代―多くの出会い、それらの出会いから導かれた将来の展望

高校は敬和学園に進学しました。倒産後の経済的に苦しい家計の中で私立の高校に行くことの大変さ等まるで考えていませんでしたが、幸いなことに、両親は苦しい家計の中で敬和への進学を認めてくれました。倒産した時、松原先生はじめ見附教会の人達が家族を支えてくれたその感謝の気持ちもあったようでした。

敬和学園での様々な出会いは、今の私を創り上げてくれたと思います。校長の太田俊雄先生、室崎陽子先生、旧姓小泉(現青山)久美子先生、安積力也先生、そして鈴木孝二先生。さらに、特別講師として礼拝でお話をしてくださる様々な方々との出会い。特にネパールで長く医療活動を行われた岩村昇先生との出会いは私の将来に強い影響を与えてくれました。鈴木先生の「日本キリスト教史」の授業を通しては、内村鑑三、新島襄、海老名弾正、柏木義円といった、近代日本初期のキリスト教指導者たちと出会いました。先達者たちの信仰と活動を学び、その流れの先に私もいるんだということを知って、神様のご計画と御業の深さを強く感じたものでした。

また敬和の在学中に基督教独立学園のことを知りました。独立学園生の生活に関心を持ち、交流したいということになって、寮の役員をしていた生徒四名で一泊二日の日程で学園を訪ね、初代校長の鈴木弼美先生や、桝本楳子先生、華子先生ともお会いし、学園生と親しい交わりの時を持って帰ってきました。

 

三、看護学校時代―友の信仰に対する嫌悪、北白川教会、奥田先生、末期癌の患者さん達

京都の、バプテスト看護専門学校に入学してすぐに驚いたのは、礼拝の持ち方や祈り方が私の知っているのとはずいぶん違う人がいるということです。学校はバプテスト連盟に所属していましたが、入学する学生の教派は様々で、ただ、信仰告白していること、牧師の推薦があることが受験の必須条件でした。

ある友人は、伝道集会で初めて教会に行って聞いた話に感動してすぐ信仰を告白したと言いました。また別の友人からは、バプテスト看護専門学校に入学するために教会に行き洗礼を受けたと聞き、正直驚きました。信仰は人間の感情に左右されたり手段として持つものではないという私の強い思いがあり、友人が感情に任せて熱く信仰を語るのを聴くのがだんだんと苦痛になり、否定や拒絶感、嫌悪感といった感覚を持つようになっていきました。小さい学校でしたし、みんな仲の良い友人として一緒に厳しい勉強や実習に励みましたが、私は、教会や信仰の表現の仕方についての話題は避けるようになっていました。受け入れられず批判する気持ちはずっと持ち続けていたのです。

京都での出席教会は、松原先生が住所を見て寮から一番近いからと、北白川教会を薦められました。入学後二か月くらい通いましたが、大人の人が多く、それも大学の先生とか偉い人が多くて大変知的で高尚な印象を受け、奥田先生の説教も難しく感じられて、見附教会で日曜学校の時から一緒の同年代の人達との交わりを楽しんできた私にとってはとても敷居が高く感じられました。それでも奥田先生に、見附教会から転会したいという話をしたところ、「ん~、もう少し北白川教会に通われてから考えたらどうですか」と言われたのを、私ではダメだと言われたように勝手に思い込んで、ますます敷居が高くなり、結局北白川教会はあきらめて別の教会に行くようになり、そのまま看護学校を卒業するまでその教会に通いました。

高校の時から、将来は海外の医療伝道に参加したいという思いを持っていましたが、看護学校で学ぶうちにもう一つ、大きく私の心を捉えたものがありました。それは、終末期を生きる人への看護です。ターミナルケアは、現在はよく知られるようになってきましたが、私が看護を学んでいた当時は、ようやく日本でその意義が認識されるようになってきた頃でした。病院の実習でも、末期癌の方を何人か担当させていただきました。そのお一人、その人は高齢の男性でカトリックの信者さんでした。ある日「終油の秘跡」というカトリックで臨終の時に行われる死への準備の儀式が、教会の神父さんによって病室で行われました。患者さんのご希望でした。その患者さんはいつもしかめ面をしていたのですが、その儀式の翌日から、表情が穏やかになったのをはっきりと感じました。自分の死期を知るとか、死が近いことを知ってどうしてそんなに穏やかでいられるのか、患者さんの思いを聴きたくても、踏み込んではならない領域のような気がして、何も聴けませんでした。

もうひとかた、その人はまだ三十歳代の若い女性で、保育園に通う女の子のお母さんでした。何度も癌の再発と転移を繰り返し、身体中あちこちに手術の傷跡が痛々しく残っていました。その方の入浴の介助をしていた時、どうして看護師になろうと思ったのとか、勉強は大変でしょうねとか、そんな他愛のない会話をしていた時に、その方が「うちの娘も看護師さんになったらいいなぁ。私はその娘の姿は見られないけれどね」と、それまでの楽しい会話の続きのようにさらっと言われたのです。会話を楽しんでいるくらいにしか考えていなかった私は、この方は笑顔で話していても、いつもご自分の死を身に帯びていらっしゃるのだということを、頭を殴られるような感覚で知って、絶句してしまいました。この方はクリスチャンではありませんでしたが、この方も自分の死を見つめて生きておられる。自分の死が近いことを察しながら、遺していく娘さんの将来の姿に希望を抱きつつ、今この瞬間を生きておられる。末期癌の患者さん方のそんな生き様に触れて、このような人達の生と死に寄り添い、様々な苦痛をできる限り和らげて、最期まで穏やかに生きて死んでいくことを支える看護をしたいと思うようになりました。まだ二十歳そこそこの未熟な私にとって、何人もの方達の人生最期の生き様と死に様に触れる経験は、衝撃であると共に、ここでも、私はどう生き、死んでいくのかを深く考えさせられることでした。


四、就職―信仰生活の挫折と苦しみからの逃避

看護学校を卒業してすぐ、日本で先駆的にターミナルケアに取り組んでいた大阪の淀川キリスト教病院に就職しました。この病院においても、終末期の患者さん方との出会いが私を育ててくれたのは言うまでもありません。この病院でも毎日礼拝が行われ、日常的にみ言葉に触れ、祈りの中で仕事ができるという恵まれた環境にありました。

そんな時、京都のバプテスト病院と看護学校から、戻ってこないかとのお誘いをいただき、大阪で二年働いた後、再びバプテストに戻りました。バプテスト病院で働いた後、母校の看護専門学校で働くことになりました。慣れない学校の仕事と自分自身も勉強しながらの看護教育は、想像していた以上に大変なストレスで、日曜日まで仕事を持ち越してしまったり、日曜日は疲れて起きられなかったり、気力も体力も消耗してダラダラと過ごして日曜日は終わり、ということが多くなってきました。祈ることも、聖書を開くことも億劫になり、教会からも遠のいていく自分に対して罪悪感や嫌悪感を持つようになっていきました。職場での毎日の礼拝に対しても形式的になってしまい、そんな自分を裁くようになり、苦しさから逃れるために、もう教会に行くのはやめよう! と思うようになりました。教会に行くのをやめるという選択は、いつの間にか「日曜日は教会に行かなければならない」という観念で自分を縛っていた事から解放されて、気持ちが楽になったという思いでした。

そのような中で、出会いがあって結婚、二人の子供を出産しました。

 

五、家庭で―子供に蒔かれた種

職場では、礼拝があることで辛うじて聖書に触れ祈るということを形式的になりながらも続けられましたが、私生活ではクリスチャンではない人と結婚し、ますますイエス様から離れた生活になっていきました。日曜日はたまった家事に追われながらも、子供とゆっくり過ごすことが私にとって一番大事なことになりました。

長女は生後八か月の時から、バプテスト病院の敷地内にある、同じ法人が運営する保育園に通うようになりました。年長になると聖書のみ言葉を習います。長女が初めて覚えたみ言葉は「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」というみ言葉でした。覚えてきた聖書のみ言葉を娘が家で披露し、聞いてきたイエス様の話をしてくれるのが、私はとても嬉しかったのです。私が教えてこなかった聖書のみ言葉を保育園が教えてくれた、神様のことを教えてくれた、そういう思いでした。

この頃、学校の仕事の関係で、当時の北白川教会牧師でいらっしゃった小笠原先生とお会いすることがありました。親しい交流があったわけではありませんが、礼拝のお話を通して小笠原先生の、虐げられ、弱い立場に置かれてきた人達と共に生きてこられたその歩みと信仰が、不思議なくらい強く心に残りました。

 

六、新潟へ―様々な再会 そして共助会へ

「山の仕事がしたい」という夫の脱サラを機に、新潟に移住しました(私にとってはUターン)。娘が小学校に上がる年、息子は三歳の時でした。

新潟に来て、私の生活の周辺にキリスト教という外的環境はすっかりなくなってしまいました。職場はごく普通の学校法人で、子供たちの通う小学校も保育園も公立です。考えてみたら、キリスト教主義を標榜しない職場で働くことは初めての経験でした。しかし二人の子供たちの基督教独立学園入学を機に、私も再び、日常生活の中で聖書を開くようになりました。学園から送っていただく日曜礼拝の聖書講話のテープを聴きながら、一緒に聖書を学び祈るということに連なれた、という思いを持つことができるようになりました。

 

七、今までの私、今の私

新潟共助会の集まりで「私の歩み」と題してお話しするようにとのお勧めをいただき、戸惑いながらも自分の来し方を振り返り、たくさんのことに気づかされました。

そのひとつは、自分が如何に戒律的で偽善者で、聖書に登場する律法学者、ファリサイ人であったかということです。マタイ福音書の二三章には、律法学者とファリサイ派の人々を繰り返し非難するイエス様の言葉が書かれています。これは、まさに私に対するお言葉であると痛切に感じます。松原先生の厳しいとも思える礼拝や生き方への姿勢は、教会に集う人にかくあるべきと求めたものではなく、先生ご自身の生き方の覚悟であったのだと今は思います。それを私は、こうでなければならない、信仰とはかくありきとどんどん自分のことも他者のことも非難していくようになりました。

信仰の表現方法の違いに対する否定的感情は消し難く、熱烈に自分の信仰を語る友に密かに拒絶感を抱いていた私自身が、実は信仰の形はこうでなければならないと感情的に思い込んでいたのでした。イエス様の救いに与ることによって真の自由が得られるどころか、私は自分のあるべき論に捉われて自分を縛り、その苦しさに耐えられなくなった時、イエス様に背くかたちで楽になろうとしてきました。

でも気がつけば、勝手に懲罰的になって自分を苦しめていた時も、そこから逃れるために教会から遠ざかった後も、神様は変わらず恵みと様々なチャンスを用意して下さり、時を待って下さっていたのでした。

私の幼い頃、家の前で「日曜学校にいらっしゃい」と声をかけていただいた時から今日まで、たくさんの出会いと恵みがありました。子供たちが京都の保育園で、すでにみ言葉に触れる恵みをいただいていたこともそうですし、子供たちの独立学園入学を機に鈴木先生と再び出会い、それが新潟共助会に繋がっていったことは実に不思議なお導きであったと思います。

共助会の集会に参加して初めて知ったことがたくさんありました。敬和学園の室崎先生、安積先生、小泉先生が共助会のメンバーであったこと、そして京都でほんのわずかな関わりしか持てなかった奥田先生、小笠原先生もまた共助会のメンバーであったこと。深く交流を持った人も、ただ通り過ぎただけに思われた人もいましたが、そのすべての出会いが、神様の用意して下さった恵みであったと思わずにはいられません。

共助会のことは、鈴木先生にお誘いいただいて初めて知りました。敬和の時も、京都にいて奥田先生や小笠原先生とわずかながら接点があった時も、共助会のことはまったく知りませんでした。でも、私の知識や理解を超えたところで、共助会に連なっておられた方々と、わずかでも接点を持って歩んできたのだということと、そのことの意味について考えました。私のような本当に小さな者が、徹底してイエス様に従って静かに、でも雄々しく生きられた方々との接点を与えていただいた。これは、イエス様に背いて生きてきた私を、神様は決してお見捨てにならず、与え続けてくださっていた恵みでありました。そしてやはり「あなたはどう生きるのか」ということをずっと問い続けていただいていたのだということです。共助会の精神である「キリストの他何ものに対しても自由独立」ということも、私に欠けていたものが何であったかを明確に教えてくれる言葉でした。

私の歩みを振り返って気づかされたことのもうひとつは、私に信仰生活というのがあったとしたら、それはキリスト教主義の学校、職場という外側の環境に依存していたものでしかなかったということです。自分の中には何もなかった。知識として、み言葉やイエス様の教えは知っていたけれど、ただ知っていただけ。知っていることだけで自分がクリスチャンであると自認していたのです。これも、まさに聖書の中の律法学者の姿です。

ルカ福音書一〇章36節には、イエス様を試そうとして質問した律法学者に、イエス様が良きサマリヤ人のたとえをお話になった後、誰が旅人の隣人であったかと返され、学者は正しく答えます。その後に言われたイエス様の言葉、「行って、あなたも同じようにしなさい」、これも、私への直接のイエス様のお言葉であったことに気づかされました。「あなたはどう生きるのか」という問いに対して、神様はすでにその道を示してくださっていたことに気づかされました。私は私の人生で出会う人、家族や同じ職場の人達、看護を学ぶ学生たちに対して、善き隣人になれるよう祈って行動していきたいと思います。

 

最後に、九月の初めの土日に、かつてバプテスト看護専門学校と病院に連なっていた人たちが大勢集まって、「懐古の会」が京都で開催され参加してきました。翌日の日曜日には、北白川教会で礼拝を守ろうと思い、実に約四十年ぶりに北白川教会をお訪ねしました。旧知の方々との再会も嬉しいことでした。

その礼拝の説教で、佐伯先生がお話しされたことですが、昭和二十年、広島で原爆に被爆した、マレーシアからの留学生の青年はイスラム教徒だったのですが、被爆後東京へ移動する途中で体調を崩し、京都で途中下車したまま亡くなられたそうです。その時、埋葬の相談が奥田先生にあったそうです。イスラム教では死後二十四時間以内に、土葬で埋葬するという定めがあるとのことで、奥田先生はこのために奔走され、結果的に、イスラムの定めに従った埋葬ができたのだそうです。

奥田先生が、イスラム教徒であるその人の信仰の表し方を徹底して尊重し、その人の信仰を守るために奔走されたというお話を伺い、私は自分の思いに執着して過ごしてきた来し方を思い起こしていた時でしたから、更に深い示唆を与えられたと思いました。

もう一つ、私は末期癌の方の最期の心身の苦痛をできる限り取り除いて差し上げたい、私自身の最期の時も、苦痛のないようにしてほしいと考えてきましたが、小笠原先生の追悼文集の中で、先生の奥様が書かれた文章を読んで愕然としました。奥様の文章には、小笠原先生がイエス様の十字架の苦しみを思い、「自分も苦しんで死にたい」と仰っておられたということと、小笠原先生が苦しみを辛抱されているところに神様のご臨在をお感じになり、『…主人が苦しみの絶頂にあり乍ら何かしら共に光の中に包まれている自分を感じて居りました。』(原文のまま)と書かれていました。

この文章を読んで、私は、自分はどう生きるのかを、いつも考えながら生きてきたつもりでしたが、イエス様の十字架の苦しみを自分の身にも負うという、これほどの覚悟があったのだろうかと、改めて思わされたことでした。

生きること、苦しむことは、神様の恵みと愛の証しであること、苦しい時にこそイエス様が傍にいて共に呻き、苦しんでくださっているということ、このことをいつも憶えて畏れと感謝の中で生きていく者としてくださいと、祈り続けていきたいと思います。