愛されたいと望んでおられる恋人 土肥 研一

ルカによる福音書七章36~50節

目白町教会の牧師の土肥研一と申します。私が目白町教会を初めて訪ねたのは20年近く前のことです。当時は信徒でした。ほかの教会で洗礼を受けたのですが、思う所あって、教会を探していました。まだ子どもが小さかったので、「幼い子どもと一緒に通える、自宅近くの教会」をインターネットで探して見つかったのが、目白町教会でした。こうして偶然のように目白町教会と出会い、教会員にしていただきました。

それからだいぶ月日が過ぎて、2009年ごろのこと。教会員の方々や、当時の主任であった松木信先生から、「近い将来、目白町教会の牧師となってほしい」という声が出て来ます。私はとても悩みましたが、結局、2011年に日本聖書神学校に入学しました。あの震災の一ヶ月後の入学式でした。

四年間の学びを終えて2015年春に神学校を卒業し、目白町教会で働き始めました。伝道者としての働きは5年目に入ったことになります。皆さんの前に今、そのような者が立っています。

私は今、母校の日本聖書神学校の恩師に声をかけられて、授業のお手伝いをしています。今学期もつい先日まで、1年生と一緒にある本を読んでいました。

ヘンリ・ナウエン。この名前をご存知の方は多いと思います。20世紀を代表する教会の指導者です。このナウエンの『愛されている者の生活』という本を、神学生のみんなと一緒に読みました。

これから牧師になろうとする皆さんと、神さまの愛について、一緒に学びたい。そう願って読み進める中で、こういう一文に出会いました。「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです」(147頁)。

すごい文章です。神さまが私を愛していてくださる。それは私もよく知っています。でもそれだけじゃない。神さまが私の愛を求めている。神さまは恋人のように、私の愛を待ち望んでいる。そうナウエンは言うんですね。「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです」。

さきほどご一緒に聴いた聖書の物語と、このナウエンの言葉は深く響き合っている、と私は思います。神さまは、私たちから愛されたいと望んでいる恋人なんだ。今日の御言葉はそれを伝えています。

よく知られた、とても印象的な物語です。「あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」。

このファリサイ派に属する人、この人の名はシモンであったと後から出て来ますが、このシモンに招かれて、イエスさまは食事の席に着いた。同じ町にいた一人の「罪深い女」が、それを聞きつけます。「罪深い女」。自らの体を売って生活してきた人かもしれません。この女性が、香油の入った壺をもって、イエスさまのところにやってきます。

当時、宴会では、なかば寝転がるようにして、足を投げ出して食事をしました。女性は、イエスさまが投げ出している、その足元に近づく。そして38節「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。

想像してください。異様な光景です。食事の席に見知らぬ女性が入ってきて、いきなり、大泣きに泣き始める。シモンはもちろん、まわりの誰もがびっくりして、女性を、追い出そうとしたでしょう。私たちだって、そうするんじゃないでしょうか。

でもそこに起こっていくのは、私たちの予想を覆す出来事です。

女性は泣きました。イエスさまの足を濡らしてしまうほどの、号泣です。

怒りや悔しさがあるんじゃないでしょうか。「罪深い女」とレッテルをはられ、さげすまれてきた。今日まで、歯を食いしばって耐えてきた。しかしイエスさまに近づいた時、堰を切ったように、涙があふれて、止まらなくなってしまった。その怒り、悔しさ。そして悲しみ。

涙は止まりません。「なぜ、私だけが、こんなに苦しい人生を生きなければならないのか。なぜですか」。泣きに泣いているさなか。しかし、ふと気づく。光が差し込んでくる。

この方は私を追い払わない。私は今、受け入れられている。「ああ、この私が、今、赦されているんだ」。「この方は、この私を赦してくださっている」。赦されている自分に気づいていく。そのとき、怒りの涙、悲しみの涙は、感謝、喜びの涙へと変わっていく。

私は、この女性の涙に思いを巡らす中で「これこそ礼拝なんだ。祈りなんだ」と思いました。この女性は、今まさに祈り、神を礼拝しているのではないか。

礼拝においてこそ、私たちは涙することができる。誰にも言えなかった裸の思いを吐き出すことができる。この女性も今、イエスさまの足に触れながら、心を注ぎだして祈っています。そして真実の神礼拝は、人を新しい行動に押し出します。彼女は泣くのをやめて、自分の髪の毛で、涙にぬれたイエスさまの足をぬぐいます。そしてその足に接吻した。

イエスさまの足。汚れた、傷だらけの足です。その汚れと傷は、イエスさまが、苦しんでいる者たち、孤独の中で叫んでいる者たちを求めて、訪ね歩いてくださった証しです。その足に彼女は接吻した。さらにその足に香油を塗った。傷の手当てをし、オイルマッサージをしたんですよね。罪人を求めてこの地上を歩き回ってくださった、この足。

さげすまれてきた私を、見つけ出してくださった愛おしい、この足。この救い主の足を、女性は丁寧に、大切に、大きな愛を込めて、油をぬって、いたわった。

この愛の応答を、イエスさまは、喜んで受け入れてくださったんですね。周りの誰もが、この女性を追い出そうとした。でもイエスさまだけは、そこに女性の愛を見出してくださった。イエスさまは、この愛を待ち望んでいた。恋人のように待っていた。

その様子を間近に見ていた、ファリサイ派の男性、シモンはつぶやきます。「あのイエスという男は、この女性の素性がわかっていないんだ」、シモンは、そう思ったんですね。もしもわかっていたら、当然、あんなこと、止めさせたはずだから。

しかし本当は逆でした。イエスさまは、彼女のことをよくわかっていた。だからこそ、もっとも近くにいることを望んだのです。イエスさまはこの女性の罪も、そしてシモンの罪も、私たちの罪も、よくよくご存知で、だからこそ今、ここにいてくださる。イエスさまの足が汚れているのも、傷だらけであるのも、そしてやがて十字架におかかりになるのも、この私のためです。でもシモンは、そのことが全然わかっていませんでした。

そこでイエスさまは、ひとつのたとえ話をなさいます。ある金貸しから、2人の人が金を借りていた。一人は50万円借りていた、もう一人は500万円です。二人とも借金を帳消しにしてもらった。さて、どちらの人が、より多く、金貸しを愛するだろうか。

シモンはもちろん、500万円を免除してもらった人だ、と答えます。そのとおりです。正しい答えをしたシモンに、イエスさまがさらに言う。44節「この人を見ないか」。

とても大事な言葉です。イエスさまはシモンのまなざしを女性に向けさせる。「この人を見ないか」。あなたの目の前にいる、この女性を見なさい。彼女こそ、この500万円を赦された人だ。「それでは、あなたは、どうなんだ」。そうイエスさまが、シモンに問うている。私たちに問うている。

女性は娼婦だったから、大きな罪を赦してもらう必要があった。でも自分は大丈夫。私たちは、そう思っている。しかし、まったく、そうではない。ここが聖書の福音のもっとも大切なところですが、本当は、シモンだって、私だって、イエスさまに赦していただかなくてはならない罪が山のようにある。

同じようなたとえ話がマタイ福音書にもあって、そこでは一万タラントン、つまり何千億円もの借金を私たちが負っている、とあります(マタイ18章23節以下)。そのとおりです。私たちは、自分ではとうてい返すことができない、罪の借金を、神さまの前にみんな負っている。そして、それを十字架のあがないによって帳消しにしていただいた。

でもそのことを、軽く見ているんですね。自分の借金はせいぜい50万円くらいだ。だから涙のうちに、イエスさまにひれ伏すことができない。だから自分がどれほど大きな罪を赦されてきたのか、がわからない。だから自分を愛することに夢中で、イエスさまを心の底から、愛することができない。

そのことをイエスさまが悲しんでいる。だからおっしゃっている。「この人を見ないか」。あなたもこの人のように、私を愛してくれないか。私の愛に、あなたも精いっぱい応えてくれないか。イエスさまは、そうやって、私たちを、呼んでくださる。自分のほうをしっかり向くことを、つまり生きる方向を変えて悔い改めることを求めてくださる。そこに救いが始まるからです。

今日の御言葉の最後にイエスさまは、女性におっしゃっています。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。救いとは何でしょう。この女性のように、イエスさまを愛し始めることです。そこにイエスさまと私との、愛し愛される関係が開けていく。そこに、何ものも壊すことができない、喜び、平安、安心が生まれていく。

この救い、この平安、この安心。私は、ここにこそ、共助会がいつも立ち返るべき原点があるのだと思います。

先にヘンリ・ナウエンの言葉をご紹介しました。「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです」。

この言葉を目白町教会の礼拝説教で紹介した時に、礼拝後、教会員のおひとりが教えてくださいました。「あのナウエンの言葉は、共助会の精神の根本にあるものだと思う。奥田成孝先生の『「一筋の道」を辿る』に、同じような言葉があった」。

驚いて、さっそく『「一筋の道」を辿る』の67頁を開いてみると、こうありました。「嘗て先生(引用者注・森明先生のこと)との或る会話の節に何故に主イエスを信ずるかと云う話が出たことがあります。其の時に先生はあの主をなつかしむやうな、うるんだまなざしを以て『主がさうすることをのぞみ給ふからだ』と答へられたのを覚えて居ります」。

なぜ主を信じるのか、なぜ主を愛するのか。そう奥田先生が問うと、森明先生が答えたんですね。「主がそれを望まれるからだ」。

ここには確かに、ナウエンと響き合う信仰があります。主が恋人のように私を望んでくださる。ナウエンという外国人がこう言っているだけでなくて、日本人の牧師が、しかも目白町教会の根幹を形作った牧師が、同じようにキリストの愛の迫りを受け取っている。それを知って、とてもうれしかったです。

さらに奥田先生は続いて森先生の「新約聖書に於けるイエスとその弟子」という論文から、引用しています。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。それは根本的なことで、イエスは罪あるものを愛され、彼らのごとき者も御側にいなくては淋しく思い給うたのである」(『森明著作集』91頁)

おそらく非常に森明先生らしい言葉なのだと思います。「イエスは罪あるものを愛され、彼らのごとき者も御側にいなくては淋しく思い給うたのである」。

イエスさまが弟子たちを選んだのはなぜか、それは彼らを利用するためではありません。淋しいからだ、森先生はそう言います。主は彼らの愛を求めたのです。彼らのような、私たちのような、罪ある者たちでさえ、おそばにいなくては「淋しい」と思ってくださったんです。

私は願います。ぜひ共助会は、ここに立ち続けていただきたい。この主の愛を、この主の「淋しさ」を、指し示し続けてください。神さまがあなたを愛している。もちろんそうです。でもそれだけではない。神さまが、あなたの愛を求めている。神さまは恋人のように、あなたに愛されたいと待ち望んでいる。あなたが神を離れて、さまよっていることを、主は「淋しい」と思っておられる。共助会はぜひ、この主の「淋しさ」にこだわってほしい。

何より今朝ここに集う私たち自身が、もう一度、気づきたい。キリストの淋しさ、そしてキリストの求め。神の御子がこの私の愛を求めてくださっている。だから私たちも今、あの女性のように、キリストのもとにまっすぐ帰っていきたい。私を愛し求めてくださるキリストを、私も愛する。そのとき、世の何ものによっても奪われない、平安が生まれていく。そこに救いの道が開かれていく。

私たちはこの救いの平安を携えて、それぞれの持ち場に派遣されていきます。そして、この暗い世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ者となる。感謝します。(日本基督教団目白町教会牧師)