今、この時にこそ、 韓日共助会の使命と役割を思う ―キリストによる出会いの意味するもの  飯島 信

【京阪神修養会講演Ⅲ

共助会が歩んで来た歴史は、人格と人格との出会いの歴史 でした。私自身を振り返っても、安積力也さんから始まり、 奥田成孝先生や小笠原亮一さんとの出会いが今日の私を在らしめています。韓日共助会の歴史もまさに出会いの歴史でし た。戦時下においては、山口高等学校英語科教授であった堀 信一と学生であった郭商珠(カクサンス) ・李台現(イテヒョン)との出会いがあります。 また、北白川教会員であった和田正は、当時京大に留学して いた李英環(イヨンファン)・洪彰義(ホンチャンイ)らと聖書研究会を通しての交わりがあり、 そこに韓国から来た李仁夏(イインハ) も参加します。そして、皆様もご 承知のように、和田正・沢正彦は、韓国の延世大学での礼拝を通して尹鐘倬(ユンジョンタク)と出会い、その出会いから金泰文(キ ムテムン)・徐順台(ソ スンテ)ら が共助会と繋がるのです。さらに言えば、東京神学大学在学当時、沢正彦は留学生であった裴ペ 興フン稷ジク・金キムインシク允植・朴錫圭(パクソクキュ)らに 共助会を紹介し、彼らを入会へと導きました。足利義弘と潘秉燮(ビョンスプバン)、小笠原亮一と金美淑(キムミスク)、佐伯勲と崔秀蓮(チェスヨン)、尾崎マリ子と 金明淑、そして木村一雄と李炳墉(イビョンヨン)など、共助会には本当に多くの出会いの歴史が綴られています。

その一方で、人格ではなく、政治的・社会的課題を通して 韓国との出会いを刻んだ者もいます。飯沼二郎は雑誌『朝鮮人』 の発行や「『東亜日報』を支援する会・京都」の活動を通して 在日の問題や韓国民主化運動と深く関わります。小笠原亮一・ 佐伯勲・山本精一・井川善也らは、在日大韓基督教会京都南 部教会を会場に行われていた「オモニハッキョ」の活動によっ て在日のオモニと関わり、私も又、日立製作所の就職差別裁 判を担った「朴君を囲む会」や、在日朝鮮・韓国人生徒の本 名を呼び、名乗る運動、そして韓国民主化運動への関わりを 通して在日や韓国との出会いがありました。

しかし、このような中にあっても、韓日共助会の礎となり、 命を湛えているのは、やはり人格と人格を通しての出会いと 交わりです。韓国共助会を担った李英環・洪彰義・李仁夏は、 和田正が主宰する聖書研究会での学びの場を通して、日本と 韓国の支配―被支配の関係を克服する人格的関わりへと招き 入れられました。尹鐘倬にしてもそうです。和田正と沢正彦 が示した日本の過酷な植民地統治に対する真摯な謝罪を通し、 罪の赦しである十字架を共に見上げる経験が与えられました。

沢が『共助』に記したその時の様子を紹介します。

[1966年4月28日(木)の日誌から]
「19時過ぎにイエス教長老会神学大学に行き和田先生 が、その日の礼拝で説教する。……説教の内容は謝罪と共助会の説明であった。……夕方、延世大学連合神学院に行き10数名の牧師達の前で話しをする。大学院の入り口には、 『日本の牧師は語る』『日本の神学生は語る』と題してこの集りの案内が書かれてあった。……私達は、韓国の兄弟姉 妹の前で語る時には、先ず始めに私達日本人が兄弟姉妹達 に加えた数多くの迫害、蔑視の心を、私達は一介の日本の キリスト者にすぎないが、キリストの十字架の前で許し給 えと一言、言わないでは話し得ないと痛切に感じていた。 私達はこの事を言う時、言葉がつまらざるを得なかった。 …… 二人の話しの後に討議の時間がもたれ、牧師達の鋭い質問 が出された。『日本人キリスト者が、謝罪を言うが、これ は日韓条約が終った後の政治的ジェスチャーに取れる』『謝 罪を言った後に一体教団は具体的に真近に居る在日韓国の 人達に対して何か働きかけたことがあるのか』『水原事件 (筆者注:堤岩里事件)に対して教団の謝罪の言葉が早くな かったのは何故か』。これらの質問にお答えする事は出来 なかった。……  懇談の時が終って禮泉(イェチョン)の尹鐘倬牧師が、和田先生の手を とり、『自分の父親が日本の警察によって打たれ拷問を受 けたことを知って、今迄日本人を憎んでいましたが、許し て下さい。私が誤っていました』とキリストにある和解の 言葉を述べられた。許さるべからざる私達に許しを懇うこ の兄弟を私達は只々感謝してお受けして喜びたいと思う。 集った人達、一人一人がこの様な気持で手を取りあって今 後の新しい課題のために進もうと誓いあった。恵まれた有意義な会であった。……  私達はこの日のことを決して忘れる事が出来ない。和田 先生と二人でこの出来事を話す度に、いつの間にか、涙で 一杯になってしまうのだ。」

韓日共助会の出会いの一つの原点がこの文章に記されてい ると思います。和田正・沢正彦が流した涙と尹鐘倬の言葉と の真中に、主イエス・キリストの十字架が打ち立てられているのを覚えるのです。そして、尹鐘倬が牧する教会の教会員であったのが徐順台です。彼女は日本留学時、和田正・林律夫妻による主に在る友情によって留学生活が支えられました。 徐順台は、『共助』1988年5月号に「人間の罪の問題として」 と題し、以下の随想を寄せました。  

長いようで短かかった日本での留学生活の五年間を終え、新たな出発の準備のため里帰りすることが出来ました。 そして韓国で様々な事を振り返っています。その中で忘れられないのは、私を一番思い支えて下さった和田先生、林 律先生、貞子夫人や、共助会の人達の生き様でした。その生き様と言うのは、日本と韓国は悲しい歴史を持っています。そのことを本当に痛みを負って生きておられる、その 姿でした。このことは、私にとって言葉では言い尽せない 程です。どれ程私自身に影響を与えたかははかり知れませ ん。

共助会員の方々が歴史の責任を日々考え、問い、葛藤し、 自らのこととして取り組み働いておられる姿勢は私自身に 大きく作用して、これから私の責任の重大さを感じさせら れます。それは、日本にされたという事でとらえること何 の解決にもならないことであり、二度と繰りかえしてはな らないことを強く憶えるための印でもあります。(中略)

韓国が日本によって流された血の償いは解決できない (血で血を償う)ものですが、肉親を失った悲しみ、いかりは消し得ないものであることは、日本でも同じであると思います。このことは国境をこえた人間の問題として私自身 は考えたいのです。人間の力では本当に許せないものであ ることを認識せざるを得ないのです。しかし、また、その 背後には人を責めたり、裁く罪を忘れてはならないのです。 責める一方であることが何の益をも生み出せないことです。私達韓国人は責める罪を、又負わなければならないのではないでしょうか。韓国人は日本人のためにどれ程祈ったことがあるでしょうか。  

私達は平和と言える時代に生きていると一般に言います。けれども本当の平和とは何でしょうか。生活が安定したり、暮らしが豊かになったり、戦争がない生活が平和で あるというものだけではないでしょう。  

本当に平和を求めるということは過去の過ちを悔い、2度と過ちを繰り返さない努力を日々生活の中に思い起すことではないでしょうか。そのことは共助会の諸先輩から学 んだことです

徐順台の言葉から、韓日共助会の交わりの形成にあたって、 見失ってはならないものを改めて知らされるように思います。 それは、日本が36年にわたって朝鮮を植民地統治下においた歴史的事実です。共助会の先達らが日本が犯した負の歴史にこだわったのは、そのこだわりを通してこそ、韓日の関係において過ちを繰り返すことのない明日へと歩みを進める ことが出来るとの思いからでした。これらの私たちの先達が 成し得て来た韓日の隔ての中垣を越える人格の交わりに思い を寄せた時、私は、第一の戒めを基底に据え、さらに第2の 戒めへと促されていった先達の信仰者としての軌跡を見るのです。その交わりは、キリストの十字架を真中に据え、十字架上のキリストを見上げつつ、その贖いの業を己が身に引き負って行く先達の歩みでした。言葉を換えて言えば、韓日の 歴史に根ざした交わり、即ち、韓日の歴史及び現在の課題を 直視しつつ、和解の業を担う歩みであると思います。そして、 その実践こそ、韓日基督教共助会が現存する歴史的意味であり、その場こそ「キリストの他自由独立」と「主に在る友情」 の2つのテーゼを生き、東アジアの和解と平和を担う福音的人格を生み出す場だと思うのです。

見失ってはならないもう一つの事柄があります。日本の朝 鮮植民地統治と言う苦難の歴史を経た後、韓国の人々が直面 したのは軍事独裁政権による弾圧でした。しかし、彼らは、 キリスト者を中心として血を流すことなく自らの手によって 独裁政権を倒し、自由と民主主義の闘いに勝利します。その 歴史的事実から私たちは何を学ぶべきかを思うのです。その手がかりの一つとして幾つかの詩を紹介します。

植民地統治と独裁政権、その時代に生き、屈することのな かった韓国の人々の息吹が伝わって来る詩です。

[植民地統治下において]

李  相  和(イサンファ)
慈しみの証しよ 麦畑が
昨日の真夜中 そぼ降る雨に
おまえは豊かな髪を洗ったのか
おのずとおれの髪さえ軽くなる
たとえ孤独でも息せきながら先へ進もう
涸れた田を抱きしめ
めくるめく優しい掘割りがぐずる子をなだめる子守歌をうたい
肩を踊らせる

 

[韓国民主化闘争の中で]

慟 哭 
趙  泰  一(チョウテイル)

まっ暗な空の下
丈高い電信塔は
ひねもす 哭いた

ソウルから釜山まで
あるいは木浦まで
津々浦々をかけめぐり
この時代を哭いた

野原をめぐり
河をとびこえ
山の嶺を息を切らしてのぼり

空には空を語り
風には風を語り冬には冬を語り
慟哭は慟哭を生んだ

目が凍りつき
耳が凍りつき
口が凍りつき
哭くことすら凍りついて

冷たい空の下
丈高い電信塔は哭いた
ひゅうひゅうと冬を哭いた

やきつく喉の渇きで

金  芝  河(キムジハ)

いち早く暁の裏小路で 
君の名を書く 
民主主義よ
私の頭は君を忘れて久しく
  私の歩みは君を忘れて余りにも余りにも久しい
ただ一片が残って 燃える胸の中 
喉の渇きによる記憶が   
  君の名前を人知れず書く 
民主主義よ

生きて来た生の痛み 生きて来たあの青い自由の追憶
よみがえって来る 
引きずられて行った 友たちの血まみれの顔
慄える手 
慄える胸 慄える 
身慄いする怒りで木の板に
白墨で 
拙い手先で 書く

息を殺し 
むせび泣きながら 君の名を人知れずに書く
やきつく喉の渇きで やきつく喉の渇きで

民主主義よ 万歳

(紙数の関係でここでは省略しますが、低賃金と長時間労働の改善を求めて闘う女子労働者に宛てた高銀(コウウン)の詩、自由と民主主義の実現を求めて割腹自殺した学友・金相真(キムサンジン)へ捧げる弔辞、民主化運 動を代表する12名の指導者によって1976年に発表された「民 主救国宣言」を資料として紹介しました。)

私は、人間が歴史的存在である以上、出会いもまたそれぞれの歴史を背負ったものとなるのは必然だと思います。歴史を背負った中から語られる言葉は、今日、そして明日の新たな歴史を確かに刻んで行く言葉となり、出会いも又さらに深く豊かなものとなると思うのです。

韓日共助会を思う時、先達らが私たちに残した遺産を受け 継ぎつつ、今与えられている新たな交わりをより確かなものとして発展させたいと願うのです。韓日の政治状況が慰安婦問題などへの取り組みをめぐり軋轢を生んでいる今だからこそ、韓日共助会が果たし得る歴史的使命があると思います。 その使命を担うに相応しい器となるために、学び、整えられ、 用いられて行くことを神様に祈りたいと思います。

最後に、1992年3月31日、第一回韓日基督教共助会 修練会を機に設立された韓国基督教共助会設立主旨文の一節を紹介します。

「この韓国基督教共助会の設立は、過去の日本の韓国への罪 過に対する本当の懺悔、良心の声と、日本の共助会の言葉で は言い尽くしえない友情の結実だと思います。」

祈りましょう。