テサロニケの信徒への手紙一① 緒論的な考察 七條真明

聖書研究として、6回にわたって、テサロニケの信徒への 手紙1を取り上げることとしたい。テサロニケの信徒への手 紙一は、新約聖書に収められている使徒パウロが記した書簡 の中で、歴史的に最も古いものであることが広く認められて いる。そのことは、言い換えれば、使徒パウロがテサロニケ の教会に生きる者たちへ宛てて記したこの手紙を通して、最 も古い時期の使徒パウロの肉声というべきものに、またそれ と共に使徒パウロの肉声を通して知る最も初期の教会の姿に、 私たちは触れることができるということを意味する。しかし、 そのような意義を持つ手紙でありながら、もしかすると私た ちによって余り顧みられていない手紙なのではないだろうか。 しばしば教会において、多くの人の愛誦聖句として取り上げ られる「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな ことにも感謝しなさい」という御言葉も、テサロニケの信徒 への手紙1の中にある御言葉(5・16~18前半)であるが、 その御言葉を含むパウロの手紙全体はどのような内容の手紙であるかと問われると、案外すぐに思い浮かべるのが難しかっ たりするのではないかと思うのである。それゆえ、この聖書 研究を通して、この手紙の御言葉が少しでも私たちの身近な ものとなることを願う。

1、テサロニケ  

テサロニケ(テッサロニキ)は、現在のギリシャ共和国にお いて首都アテネに次ぐ大きな都市であり、テルメ湾の北東の 端に位置した良港であったため、この町は時代を越えて存在 意義を保ち続けた。ローマ時代には、オリエント世界へ通じ るエグナティア街道の要衝であった。

パウロは、彼の第2次伝道旅行において、テサロニケを訪 れることになった。パウロの伝道旅行を考えるとき、それは もちろん、聖霊の導きによって辿ることになった旅路であっ たというべきものだろうが、パウロの側から考えると、使徒 パウロの伝道計画と深く結びついていたものとも言えるので はないだろうか。パウロは、その地域において伝道の拠点と なるべき場所をまず訪れているように思われる。それは決し て、地方のより小さな町々を軽んじているというようなこと ではなく、イエス・キリストの福音が、地方の隅々にまで、 本当に小さな町々にまで広がっていくためにこそ、まず多く の人が訪れる大きな町、そこに伝道の拠点としての教会が建 てられることを考えたのではなかったかと思う。

パウロの第2次伝道旅行におけるテサロニケでの伝道の様 子については、使徒言行録の第17章1節以下を通して知る ことができる。1節に、テサロニケの町に「ユダヤ人の会堂 があった」ことが記され、2~3節では、「パウロはいつもの ように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、3回 の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず 苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、 また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説 明し、論証した」と記される。パウロは、テサロニケの町で、 ユダヤ人の会堂へとまず入って行った。「いつものように」で ある。つまり、パウロは、多くの町において、ユダヤ人の会 堂をはじめユダヤ人の集まっている場所へまず赴くことを、 その町での伝道の端緒とした。それは、テサロニケにおける 伝道においてもそうであった。そこにも、パウロの伝道の計画、 伝道の戦略と言ってもよいものがあると思う。

2、パウロのテサロニケにおける滞在

パウロは、使徒言行録17章2節にあるように、テサロニ ケの町のユダヤ人の会堂で「3回の安息日にわたって」論じ 合い、また主イエス・キリストを伝えた。「3回の安息日」と いうことから、パウロのテサロニケでの滞在期間を、2~3 週間という短い期間であったと推測するのは多分に無理があ るであろう。それほど長い期間とは言えないにしても、ある 程度のまとまった期間での伝道がテサロニケでもなされたで あろう。パウロの伝道は実を結び、パウロの御言葉の説き明 かしを通して、ユダヤ人たちのうちの「ある者は信じて、パ ウロとシラスに従った」(使徒一七・四)。そればかりでなく、「神 をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦 人たちも同じように2人に従った」(同4節)。そうやってイエ ス・キリストを信じる者たちが生まれ、テサロニケの町に教 会が生まれたのである。

3、手紙執筆の場所と時期  

テサロニケの信徒への手紙一が執筆されたのは、第2次伝 道旅行におけるコリント滞在時のことであったと考えられる。

第2次伝道旅行におけるテサロニケからのパウロの旅路を辿ってみる。まず使徒言行録第17章10節において、パ ウロの伝道によって引き起こされたテサロニケにおけるユダ ヤ人たちからの迫害の中で、テサロニケで信徒となった者 たちが、パウロとシラスをベレアへと送り出している。そし て、テサロニケのユダヤ人たちがパウロがベレアにいること を聞きつけてベレアまでやって来たので、パウロが海岸の地 方へと向かう中、「シラスとテモテはベレアに残った」(使徒 17・14)とある。パウロはそこから赴いたアテネでの伝道を 経て、コリントへと向かう。パウロのコリントでの滞在と伝 道の様子を記す使徒言行録一八章において、五節に、「シラス とテモテがマケドニア州からやって来ると」とある。パウロ がコリントに滞在している間に、シラスとテモテが合流した のである。

パウロは、テサロニケの信徒への手紙一の第2章17節以下 に、テサロニケに再び赴きたいとの願いを記す。しかし、パ ウロ自身によるテサロニケ再訪は実現せず、代わりにテサロ ニケに若き同労者テモテを遣わした(3・2)。そして、第三章 六節に、パウロはこう記している。「ところで、テモテがそち らからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰 と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」。つまり、 この手紙が書かれたことの背景に、テサロニケに赴いていて、 「今」帰って来たテモテによるテサロニケ教会に関する報告が あったのである。そのことを考えると、この手紙が、パウロ のコリント滞在時に書かれたものであることの説明がつく。

しかし、それは具体的な年代としてはいつ頃のこととなる のか。使徒言行録第18章12節以下に、パウロのコリント 滞在時の出来事として、ユダヤ人たちがパウロを襲い、法廷 に引き立てて行ったことが記されている。12節に、「ガリ オンがアカイア州の地方総督であったときのことである」とある。ギリシャのデルフォイで発見された、ローマ帝国の第4代皇帝であるクラウディウス帝の手紙の文面を刻んだギリ シャ語碑文の破片の解読により、ガリオンがアカイア州の地方総督であった時期がほぼ明らかとなり、それによってパウ ロのコリント滞在は、紀元50年初め頃から51年の夏近く までであろうということが分かっている。したがって、テサ ロニケの信徒への手紙一の執筆が、パウロのコリント滞在時 になされたと考えれば、その執筆の時期が紀元50年頃と同定できるのである。

4、挨拶  

具体的にテサロニケの信徒への手紙1の第1章の内容へと 入っていきたい。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・ キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和 が、あなたがたにあるように」(1・1)。

パウロは他の多くの手紙においてそうであるように、この テサロニケの信徒への手紙1においても、手紙の発信者と宛 先となる受け取り手を記すのと共に、挨拶の言葉を記す。こ の手紙における挨拶は、パウロの他の手紙と比べて何か際立っ て特色のあるものでは必ずしもない。むしろパウロ書簡にお ける挨拶の中でも、非常にシンプルな形の挨拶になっている と言えるであろう。しかし、そのシンプルな形の短い挨拶の 言葉の中に見出せるものは、実は非常に深いものがあると改 めて思わされる。

パウロは、この手紙の受け取り手であるテサロニケ教会の 人々のことを、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれ ているテサロニケの教会へ」と記した。新共同訳聖書は、し ばしば「結ばれている」という訳を用いる。なかなか味わい 深い訳でもあるが、新約聖書のギリシャ語の原文では単純に 「エン」(英語のイン)という言葉があるだけである。つまり、 より直訳調で訳せば、「父である神と主イエス・キリストの中 にあるテサロニケの教会へ」ということである。さらに、「教会」と訳される原文の言葉、「エクレーシア」は、「呼び出さ れた者たち」という意味の言葉である。教会を意味する「エクレーシア」という言葉の、もとの意味合いを踏まえるなら ば、この手紙の宛て先であるテサロニケ教会、テサロニケの 教会に生きる人々とは誰であるかというと、テサロニケにあっ て、父である神と主イエス・キリストの中に呼び出された者 たち、ということになる。「呼び出された」とは、どこから呼 び出されたことなのかと言えば、この世からである。この世 から呼び出されて、父である神と主イエス・キリストの中に、 今はいる、置いていただいているテサロニケの人たち。パウ ロは、この手紙の受け取り手が誰であるかを記すところでも、 まさにその受け取り手であるテサロニケの教会に生きる人々 に、あなたたちはそういう人たちだ、と言い表していること を思うのである。

ここでパウロが語っていることと同じことを語っていると 言ってもよいのは、第1章9節の終わりの部分である。「また、 あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生け るまことの神に仕えるようになったか」。パウロが冒頭の挨拶 において、「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と語る 「恵みと平和」とは何を意味するのか、と言えば、この世から 呼び出されて、神ならざるものを神とするようなところから 離れ、生けるまことの神に立ち帰らせていただいた恵み、ま ことの平和、平安を、パウロはテサロニケの教会の人々の中 に見つつ、祝福の挨拶を送るのである。

5、 パウロ、シルワノ、テモテ  

改めて、冒頭の第1章1節において、この手紙の発信人と して記されている部分について考えてみたい。

テサロニケの信徒への手紙1は、何よりも使徒パウロの手 紙と呼ぶべきものであることは間違いない。しかし、パウロは、 この手紙の書き手、発信人として、自分だけではない、自分 を含めて3名の名前を記した。「パウロ、シルワノ、テモテ」 である。パウロの手紙は、その多くの手紙において、口述筆 記の形で記されたと考えられるので、パウロが語ったところ をシルワノあるいはテモテが記したのかもしれない。しかし、 パウロが、他の手紙と同様に、この手紙を自分からだけの手 紙とせず、シルワノとテモテを含めた3名からの手紙とした のは、やはり大きな意味があることだと思わされる。

ここで、「シルワノ」と出て来るのは、使徒言行録に出て来 る「シラス」と同一人物と考えられる。「シラス」というのは ギリシャ語での名前であるのに対して、「シルワノ」というの は「シラス」をラテン語形にした名前である。

このシルワノ、使徒言行録ではシラスとして出て来る人物 は、使徒言行録15章1節以下に記されるエルサレムで開 かれた使徒会議において決定したことを、アンティオキア、 シリア州、キリキア州、それらの場所に生きる異邦人キリス ト者たちに、パウロやバルナバと一緒に伝える使者として遣 わされることになった一人である。シルワノ(シラス)自身が、 神の言葉を語って教会の人たちを励まし、力づける働きをし た人でもあったことが、同じく使徒言行録第一五章に記され ているが、やがてシルワノはパウロの第2次伝道旅行に同伴 することとなった。フィリピにおける伝道では、パウロと一 緒に捕らえられて、牢獄に入れられるような経験もしながら、 パウロと一緒に伝道の旅路を共にした。ペトロの手紙1第5 章12節を見ると、ペトロはその手紙がシルワノを筆記者に して書いた手紙であることを明らかにしているので、ペトロ の伝道の旅路に同行した時期もあったと考えられる。

テサロニケの信徒への手紙の発信人としてもう一人その名 前が記されるのは、テモテである。テモテは、パウロがこの 人に書き送った、テモテへの手紙1および2という2つの手 紙が、新約聖書の中に収められているので、それらの手紙を 通して、私たちがよく知っている人物だとも言える。テモテは、 リストラという今のトルコ南部の出身で、使徒言行録第一六 章に記されるとおり、父親がギリシャ人、母親がユダヤ人で あるキリスト者で、パウロが自らの協力者として、第2回目 と第3回目の伝道旅行に同行させた若者である。パウロの信 頼も厚く、しばしばパウロの伝道活動によって教会が生まれ た場所に、後から自分に代わって遣わした人物でもある。

パウロが、彼が書いた多くの手紙におけるのと同様に、こ のテサロニケの信徒への手紙1においても、手紙の発信人を 自分だけとはせず、シルワノとテモテの名前を自分の名前と一緒に加えて、3名からの手紙としたことの意味を思う。そのことには、パウロが、伝道は自分1人でしているのではな いことを常に心に留めていたことが現れているのではないだ ろうか。そればかりでなく、パウロは、自分の伝道旅行に同 行しているシルワノとテモテ、そしてこの手紙の受け取り手 であるテサロニケの教会に生きる人たちと共に、1つなる主 イエス・キリストの教会に生きる者たちとして、この世から 共に呼び出されて、父である神と主イエス・キリストの中へ と入れていただいている恵みと平和を、この手紙の冒頭の1 節を記すところでも覚えていたのだと思うのである。キリス トの教会に生きる私たちは、生けるまことの神に仕えるとこ ろへと恵みのうちに招き入れていただいた者たちであり、そ の恵みによってなお世から多くの人が呼び出されるために、 イエス・キリストの福音を宣べ伝えていく光栄な使命を与え ていただいている者たちである