終わりの始まり(2015年4号)〜鈴木幸江

 一月二十四日土曜日、四時半起床。

こんなに早く起きたのは何年ぶりだろう、緊張しているせいかあまり眠くない。第二回青森共助会に初めて出席するため六時三十二分東京発、新青森行き新幹線「はやて一号」に乗車する。

 九時五十分新青森に到着。一面の雪景色、飯島さんとタクシーを探して駅周辺を一周するが見当たらない。ようやく見つけたタクシーに乗り、運転手さんにタクシーが見当たらず捜したと話すと、「タクシーは有りますよ」と指差した先に、タクシーの屋根だけがのぞいていた。

 雪が多い青森だが当日は晴れ、先週まで吹雪いていたとのこと。会場の玄関に金美淑さんが迎えてくださる。工藤浩栄さんの司会で開会、窓外の雪が静かに輝いて雪慣れしていない私に北国の美しさを教えてくれる。工藤浩栄さん、小笠原浩平さんの証しを伺う。昼食を囲んで簡単な自己紹介をする。青森教会の小笠原夫人のお友達や五所川原教会の会員の方、小笠原先生に出会って牧師になられた方、など十五名ほど。

 午後は金美淑さん、川西健登さんの証が続く. 一人一人のお話が神様のみ手の中でどのように生きてきたかを知らせてくれる。ふと、共助会の原点がこの北国にあるのではないかと思わされ、久しく感じたことのない感動を覚えた。

 翌日、その日もよい天気に恵まれ小笠原夫人、浩平さんの案内で青森教会で礼拝を守らせて頂き、青森の町を歩き小笠原夫人と共に祈り昼食をとった。

 前日の集会の話になり、夫人が「夫が以前『死んでからが勝負だ』と言ったことがありました。その時、どういう意味か解りませんでした。不思議に思いました。でも、昨日の集会で皆様の話を聴いていて、なぜ夫がそのように言ったのか解ったような気がしました。」と話された。

 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。」(ヨハネ一二・24)

 このみことばが胸に迫ってきた。

 死は終わりではなく、主に在る死は甦りであり命なのだということを知らされる思いがした。主に用いられた生は死んで終わるのではなく、正にこの地上で始まるのだということを。