出発の朝に   飯島 信

2020年を迎えた。基督教共助会創立101年の朝である。今から始まるこの時、神が私たちの小さき群れに与あずからせようとされている御業(みわざ)とは何かを思う。

100年を迎えた昨年、神が私たちに与えられた恵みの御業は、私たちを圧倒した。1933(昭和8)年から始まり、全800号を優に超える『共助』誌に収録されたどの先達とも、パソコンさえあれば、わずか数分で私たちは出会うことが出来る。又、先達が遺した珠玉の文章を纏まとめた書籍から、私たちは森明その人に近づき、彼によってキリストに出逢わしめられた先達らの信仰の消息を知り得る。さらに、神は、比類なき贈り物として、主に在る友を私たちに与え続けている。神が私たちに託された御業が、未だなお成し遂げられず、そのための働き人を神自ら招き入れられている。

それだけではない。神の御業は続く。共助会に託された使命である福音的人格の誕生に欠く事の出来ない教育と伝道の事柄に、神は友を通して私たちに力を尽くして取り組むことを命ぜられた。本号は教育に関わる神への応答であり、今月13日には、伝道に関わる私たちの応答が為される。そしてまた、キリストを愛し、愛された森明その人とさらに深く出会う書籍も準備されている。

これらの恵みの御業を思う時、100年の時を期て、神は私たちの歩みに厳しく介入された。友をして「一種のルネサンスとリフォメーション」と呼ばしめたその事柄は確かに起きている。その事を想う時、私たちは同時に、恵みだけではない神の厳おごそかな呼びかけを聴くのである。恵みにより私たちに与えられた力によって、神は、キリストをより大胆に世に紹介し、交わりの務めにもたゆまず励めと命ぜられている。そして、その道は、神の祝福を受ける道でもある。

一方、喜びと共に悲しみも訪れた。先の一年、河合達雄、尾崎風伍、尹鍾倬氏らを御許に送った。しかし、これらの人々によって与えられた交わりがどれほど豊かであったかを思う時、悲しみより以上に神への感謝を覚えずにはいられない。

あと一つ、先達らの歩みに向き合い続けながら、先達らと共に歩み続けた女性たちの人生の消息にも深く心が引かれる。先に、忘れ得ぬ人々として、私は和田テル子と沢崎良子を記したが、先達らと共に人生を生きた人々の歩みに光をあてたいと思う。なぜなら、彼女ら無くして、先達らの信仰者としての歩みは考えられないからである。

共助会101年、与えられた日毎の歩み、神に備えられた道を、主に在る友たちの働きを祈りに覚えながら生きていきたい。

「恐れるな、小さい群れよ。御み国くにを下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」(ルカ12:32)

(日本基督教団 立川教会牧師)