今、地方伝道を思う 小淵康而(おぶちこうじ)

今、地方の教会は、衰退疲弊しています。都会の教会については詳らかではありませんが、地方の教会は弱り果てています。小生が住んでいる新潟県下の日本キリスト教団には24の教会・伝道所がありますが、そのうち7教会・伝道所は担任教師が不在で、代務者または他教会の牧師によって説教がなされています。9教会・伝道所は礼拝出席10人前後、あるいはそれ以下です。衰退疲弊の問題は、牧師任せの伝道・牧会の付けが回ってきているのではないかということです。

プロテスタント教会は、ルター以来、「聖徒」として召されている牧師も信徒もすべて「祭司」として召されているということを聖書の中に発見し、「教会の3つの城壁」の中の第1の城壁である霊的身分と世俗的身分の壁を取り除いたはずでした。そのことをただ認識するだけでなく、祭司の働きができるように教育し訓練し育成する必要があったのです。しかし、その訓練育成の必要性を牧師自身もあまり感じることもなく、結果的に訓練育成に怠りがあったのではなかったか……。そしてその付けが今、教会の衰退を招いているのではないか。

共助会の出発点は、「キリストの恩寵に浴した者」が、キリストを「諸友に紹介せんとする目的」でした。どうしたらよいのでしょうか。このことを小生は長い間考え、模索してきました。一つのヒントは、パウロ書簡にある「家の教会」です。信徒が自分の家に、信仰の友を招き、定期的にみ言葉を学び、互いに祈りあうことを、教会の働きの一つとして行うことです。ある程度霊的教育訓練を受けた信徒が奉仕者となることで、その場に牧師がいなくても、神の御心にかなった集まりになっていきます。例えば、前回の礼拝説教を各自がどのように受け止めたかを分かち合い、互いに学びあうことができます。また、各自の個人的な事柄も含めて、祈りの課題を分かち合い、執り成しの祈りができます。さらに、このような集まりには未信者の家族や友を招くことができ、やがて教会の礼拝への道も開かれるでしょう。特に地方では、家庭にお招きするのは、教会よりも集まりやすく、より親しみやすい利点があります。

信徒が、「万人祭司」として育てられ、奉仕する場が必要です。その場があれば、牧師不足を嘆く必要はなくなるかもしれません。