過ちを繰り返すことなく 飯島 信

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」ルカによる福音書 第17章20―21節(1955年改訳)

 神の国とは、この世の権力とは相いれない、神様が支配する国である。そして、神の国は、すでに私たちのところに来ている。

 「伝道は、天国の業である」(澤崎堅造)と先達が言う時、神の国は確かに彼の中に捉えられていた。伝道の業によって、彼はパウロの次の言葉を知り得たからである。「神の国は、言葉ではなく、力である」と(Ⅰコリント4・20)。実際、熱河の地でのいかなる小さき伝道の業も、神様の御心に適う時、幾十倍にも豊かにされた。

森明から始まった共助会は、友にキリストを紹介する福音伝道こそ命である。もし、共助会が98年にわたって築いて来た数々の業を、己の力で成し得た業とするなら、その歩みは神の国とは無縁な歩みである。しかし、それらは神様が成し得た業であり、私たちはその業に与る者であったなら、その時、私たちはその業を通して神の国に招き入れられた事を知る。

共助会は、来年、100年を迎える。神様は、これまで、なぜ共助会の歩みを止めなかったかを思う。戦時下では、かつての先達が始めた「みくに運動」という大きな過ちがあった。軍部独裁や神社参拝への沈黙の罪もあった。それにもかかわらず、神様は百年に向かおうとする私たちの歩みを許されている。何故か。過ちへの赦しを請い願いつつ、神様がこの地に成そうとしている御業に与ることを祈り続ける私たちを、その憐れみの中に置いて下さるからである。

伝道は、神の国へと導く天国の業である。神を愛するとは、神の支配を待ち望むことである。隣人を愛するとは、隣人の痛みを知ろうとすることから始まる。しかし、この時、私を厳しく問う声が聞こえる。どれだけ真実に神様の支配を待ち望んでいるのかと。どれだけ誠意を尽くして隣人の痛みを知ろうとしているのかと。

共助会の歴史は教えている。ただ神のみに従い、隣人に仕えることの大切さを。この二つの事を改めて心に覚え、祈りつつ、共助会創立99年の歴史を刻んで行きたいと思う、主に在る友垣の中で。