ありのままの自分を求めて 湯田 大貴

今回、記事の執筆依頼を受けた時に、私はあまり書ける気がしなかった。夏期修養会での発表に対して、安積先生から応答があったが、その応答に対しての自分の再応答がまとまっていなかったからだ。しかしながら、言葉や形式を綺麗に飾りたがる性分がある自分にとって、まとまっていない自分の思考を「生のまま」皆様の前に出すという試みもまた「臆病な」自分にとっては良き訓練となるのではないかと思い、今回はあえて、徒然なるままに書いていこうと思う。

2019年7月末、僕は基督教共助会の夏期信仰修養会にシンポジウムの発表者の一人として参加した。テーマは特に与えられなかった。でも、五月まで留学に行っていたので、そこでの経験などを話して欲しいのだろうと僕は勝手に感じて、それについて話すことを決めた。

メインのテーマは「あっち側とこっち側」。留学生活の中で、「人間の心を支配する最も強い感情は恐怖だ」という気づきから、どうしたら恐怖から解放されるかを考えたとき、「それは恐れを感じる対象と対峙しているからだ」ということを考えた。対峙するから怖いのであり、対峙しなくなれば、もはやそこに対象はないのだから、怖くないということ。そして、対峙することを選んでいるのは、紛れもない自分自身であること。だから、「あっち側」に行ってしまったものを、「こっち側」に取り戻すこと。取り戻すというよりはむしろ、全部「こっち側」にもともとあったことを思い出すこと。私たちは神様の調和の中にあることを思い出すこと。

そう言った事について話した。自分としては精一杯の発表だったと思う。実際、多くの方から「よかったよ」とお褒めの言葉をいただいた。その中で、「私なりの応答があるから、話をしよう」と、そう言ってくださったのは、安積先生だった。僕は安積先生にこ

の修養会で初めてお会いした。僕はマイク持ち

として働いていたので、安積先生が2日目のプログラムの福島のことについて応答する際も、間近でその様子を見ていた。嘘一つない、ありのままの思いを語っていることを証しするようなその眼差し。自分自身に対する怒りによって、わなわなと震える指先。僕は圧倒された。

そんな安積先生から、一体どんな言葉をいただけるのか、期待とほんの少しの不安を抱えながら、その時を待った。そして、発表の日の夜、安積先生とお話しする時間をいただいた。まず最初に問われたことは、「君の発表で決定的に欠けている視点が何だか分かるか?」ということだった。僕はいきなりそんなこと言われたものだから、とても混乱してしまった。正直、全く見当もつかなかった。そして、安積先生は続けて、「君は他者との関係性の中でしか、自分を語らない。徹底的に孤独な自己という視点が決定的に足らない」と言われた。それは、まさにその通りだと思った。先生は次のように続けた。「君は外からの刺激に対して、すぐに反応してしまってる。それではダメだ。一度、自己の最も深い、腹の底で、自己との対話、内省を通してから、外へと発信しないといけない。」確かに、自己内省や自己対話みたいなことを僕はほとんどやったことがなかった。だいたい、自己の最も深いところにいる本当の自分というものを認識すらしたことがなかった。そんなものは本当にあるのだろうか。

色々考えた末、「本当の私」と向き合うことは、つまるところ、自分の弱さと向き合うことなのだと思った。だから、徹底して_自分の弱さを求めた。だからこそ、今年の「佐久学舎」では、まったくもって嘘のない発表をしようと心に決めて、必死に祈り求めた。神様との対話の中でのみ、本当の自分が浮かび上がると思ったからだ。祈って祈って祈り求めた。深夜三時くらいまで、一人で祈り求めた。でも結果、答えのようなものは与えられなかった。祈り求めていくうちに、だんだん何が「本当」なのかもよくわからなくなって、頭の中がぐるぐるしてきた。

答えが与えられないまま臨んだ発表。それでも精一杯、いつもより飾らない言葉で発表した。結果、「全然楽しくなかった」。無理やり、自分の弱さを強調したその発表は、自分にとって全然自然ではなかったからだ。

キリスト教界隈にいると、たまに「弱さ見せろハラスメント」を受けているように感じることがある。変な話なのだが、弱さを見せられる人間のほうが優れてて、自分のような弱さを見せられない人間は劣っているように感じるのだ。一体何が、本当の自分なのか。「本当の私」とは本当に、「弱い自分」のことなのだろうか。そんな風にも感じ始めた。

ぐるぐるを感じたまま、僕は日々を過ごした。でも、最近ある言葉が僕を少しだけ救ってくれた。

「ありのままの私、強さも弱さも全て私だなって思えた」

これは、Humans of ICU というICU生にインタビューする企画の中で、古い友人が語った言葉だ。

僕は彼女のことをそんなには知らない。二、三度しか話したことはないし、印象としては、とても明るい子だなという感じだった。そんな彼女が、本当に孤独を経験して、自分の弱さと向き合いながら語ったその言葉は、僕の心を打った。強くもあり、弱くもある彼女のその姿に、僕は自分自身を投影してしまう。強さも弱さも、神様から頂いたもの。もともとない弱さを探し出したって、見つかるわけなかったのだ。だから答えが与えられなかったのだと思う。神様が与えてくれた強さと弱さをそのまま愛したい。ただその一方で、強さを隠したり、弱いところを強く見せたりすることはやめよう。それは神様の創造に反することだから。自分は自分のままでいい。弱いだけが本当の自分じゃない。自分には強さもあるし、それを誇ったっていい。神様が「よし」としてくれた自分に還ろう。そう思えた。少しだけ本当の自分がわかった気がする。

この記事を書いているのは九月三〇日。明日から、一〇月だ。正式に就職することになる。また新たな人生のステージが始まる。このタイミングで、本当の自分が少しわかったことは、とても幸いなことだと思う。最後にお祈りを持って、この文章を締めたいと思う。

神様、私はあなたの証としてこの命を捧げます。あなたが私

を愛してくださったように、私もまわりのみんなを愛せますように。そして、自分が弱いときには、自分の弱さを認めて、みんなからの愛を受け取れる強さをください。死に至るまであなたに忠実であった御子イエスキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。(株式会社セールスフォース・ドットコム)