神様の導きの内に生かされて 阿部 真希子

この度は、発題の機会を頂き感謝致します。

私は、大学浪人中に川田先生に出会い、大学1年より佐久学舎に参加させて頂き、はや九年になります。共助会の修養会には、今回初めて参加させて頂きました。

私は、静岡県袋井市にある、デンマーク牧場というところで働いております。牛や羊のいる牧場に隣接して、児童養護施設や老人ホーム、精神科の診療所などを持つ、ユニークなところです。私は診療所に看護師として所属しています。しかし主には、4月に開所した就労B型の「いぶき」という作業所で、20から30代の、特別支援学校を卒業した方やひきこもりの方と働いています。仕事内容は、牧場の羊の毛を使ったマスコットや、コースターなどの製作、放牧場の柵を直す、草刈り、馬のフン掃除、有機農法での野菜作りなど多岐にわたります。私はアジア学院を卒業したので、畑作業を担当しています。そのため、採血をしている時間よりも、軽トラックに乗ったり、馬のフン掃除をしている時間が長いのです。はたから見れば変わっていますが、私は今の生活に満足しています。

なぜ、私がこのようになったのか、人生を振り返ると、3つの大きな出来事を思い出します。

1つ目は高校での不登校、いじめの経験です。

進学校に通い、勉強と部活で毎日9時に家に帰る日々でした。

ある日、朝食を前に涙が止まらなくなり、そこから不登校がちになりました。何とか続けようと思っていた部活も立ち行かなくなり、同級生を集めて、退部することを伝えましたが、理解が得られず、昼休みに教室に入ってこられ、怒鳴られました。そのため、もうその学校にはいられないと感じ、定時制の学校に転校、卒業しました。高校を卒業できるか不確かであった時には、求人誌の高卒の文字が目に刺さりました。つまずくことがなければ、何の疑問もなく通る、小学校~高校という進路です。しかしながら、そのレールを外れる経験を通して、高校は義務教育ではないといいながら、行かない場合の選択肢は本当に狭いことを知りました。当時、高校生ながらに、世知辛さを感じたことを覚えています。

2つ目は福島の原発事故です。本日、神戸さん、北川さんから福島の事をお聞きしました。私は、今、過去の一時点として自分の人生に影響を与えた事故のことを語りますが、多くの方が依然、現在の事として苦しんでいらっしゃる現状をお聞きし、大変な衝撃と、自分の想像力のなさに恥ずかしさを覚えています。当時、震災支援で宮城に通ったり、福島を訪れたりしましたが、それすらもどこか問題の辺縁を周っていただけで、人々の深い痛みには全く近づけていなかったように感じます。しかし、それでも、この事故の影響なしには、今の自分はなかったと思うので語らせて頂きます。

原発事故が起こったのは、私が大学2年になる春でした。私は実際に被災したわけではありません。環境や自然のことを、それほど考えていたわけでもありません。しかしながら、全ての生命の源である土が汚染されて、食べ物が取れなくなったり、人が住めなくなったりするという事実に、大きな衝撃を受けました。テレビをつければ連日原発のニュースが溢れ、聞けば聞くほど絶望的で悲惨な状況に、大切なことだとは分かっていても、耳を閉ざしたくなる思いでした。そんな中、1冊の本に出会いました。飯舘村から避難した親しい方が送ってくださった、『福島 飯舘 それでも世界は美しい』(小林麻理著・明石書店)という本です。人のいなくなった飯舘村の田んぼに水を張ったら、おたまじゃくしなど様々な生き物が集まり、何事もなかったかのように生きている、という描写を読み、原発事故で私達が犯した1番の大きな罪は、物言わぬ自然に対してであったと知りました。メディアでは、節電、節電と人間本位の問題しか取り上げていない中でのことでした。

その後、2015年に一人で福島を旅してから、自分の中でこんな疑問を持つようになりました。

〝医療=人間のため もっと広い意味での健康とは?

人間だけでなく、地球全体の健康とは?〟

看護師として長野の病院で働いて2年目のことでした。

その翌年、デンマークに5カ月間留学する機会を経て、地球環境や食べ物のこと、世界のことに目を開かれ、辿り着いた先がアジア学院でした。これが私の人生に影響を与えた、3つ目の出来事でした。

アジア学院は栃木県にある、アジア、アフリカなどの草の根のリーダーたちが、8カ月間共に生活し、仕えるリーダーシップや有機農業を学ぶ学校です。私はそこに、日本人学生として入学しました。カリキュラムのかなり初めのほうに、有機農業の授業があります。そこで、地中の微生物、昆虫、植物、動物、全てがつながっていて、全てに役割があることを学びます。それがこの人間社会にも適応されるとは言われませんでしたが、暗に言われている気がして、私にとっては大変心にしみる学びでした。そして、研究科生として残ることを決心した頃、この有機農業という手段こそ、私の求めて

いた、上記の問いの答えであったと確信しました。また、学院では、背景や考えの異なる人との濃厚な共同生活を経験します。24時間、共にいるということは、自分の嫌な部分もさらけ出さなくてはならないということです。それは本当に大きなチャレンジでしたが、うわべや綺麗ごとではない、本当の意味の多様性を経験することができました。アジアやアフリカからの同級生たちは皆、自分の地域や国を良くするために学びに来ています。私も皆の熱意に影響されて、気が付いたら世界の事から、日本の事に、より目を向けるようになりました。特に、高校生の時の経験が心の奥底にずっとあることに気付いたこともあり、多くの人が生きづらさを抱えている日本社会のために働きたいと考え始めました。

始めは、高校で養護教諭をやりながら、農業を教えるという話を頂き、それが御心であると信じていました。しかし、自分で決めようとすればするほど話は進まず、ひとまず、父親の紹介で、育児休暇中の友人の代理で働き始めたのが現在の職場でした。

私は今年の2月にアジア学院を卒業したばかりであり、畑を自力でやるのは初めてです。

種まきが遅かったり、畑を一から整備しなくていけなかったりと、試行錯誤の連続でしたが、幸いなことに自然は応えてくれています。また、ハンディキャップのある方とのかかわりも、一般社会への就労を見据えての支援も初めてのことばかりです。それでも私は今の仕事に、確かなやりがいを感じています。それは、社会のほんの一角でも、実際に自分がかかわりたいと願っていた人たちと関わることができているからでしょう。さらには、日々、一人一人が変わっていく姿を間近に見ることができる幸いがあります。かかわりに悩むこともありますが、毎日の変化を共有し、共に考えることのできるスタッフがいること、また、つらくてもめげずに通い続けて下さる利用者さんたちの存在が私の大きな励みとなっています。

まだまだ、困難も多く、先のことは分かりませんが、ここに神様の選びがあると信じて、続けていきたいと思います。(看護師 浜松バプテスト・キリスト教会員)