信仰の友に励まされ 犬飼 恵理香

私が奉職しております教会附属幼稚園の同窓会長を担ってくださり、福音宣教のために全力を注ぐとはこういう事なのだと身をもって教えてくださった大変に尊敬する飯島 信先生に誘われて、何度かこちらの修養会に参加させていただきました。その時、私はヘブライ人への手紙十三章のみ言葉が頭にすっと浮かんだ事を覚えています。『あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。』私もこのように年月を重ねていきたい、その〝信仰の仲間〟と呼び合う交わりの場に加わることが出来たらと思いました。すると、なんとあっという間にその時は訪れ、今回こうして皆様と過ごす時間を頂くことが出来ました。心から主に感謝しています。

私が奉職し十五年、毎日、笑って泣いて怒ってのくり返しです。ある日、子どもたちと散歩へ出かけると「ねえ先生! ゴリアテのズボンがほしてあるよ!」と声を上げる子どもたち。「えぇ? どこどこ?」あたりを見渡すと、工事現場のブルーシートがビルの五階あたりから垂れさがっていました。ちょうどダビデとゴリアテの話をしたばかりだったので、大人にとってはただのブルーシートも子どもたちにとってはゴリアテのズボンに見えるのだと感動を覚えました。他にも「ねえ先生! みてー!!朝顔が咲いたよ! 神様がここにいるんだね」とか。

「雨が降ってきたからお部屋に入りましょう」そう声をかけた時「痛い! 目に雨が入った!」という男の子の声。「大丈夫?」思わず顔をのぞきこんだ私に、彼はニコッと笑い目を輝かせて言いました。「大丈夫だよ! 恵みなんだから。でも恵みって痛いこともあるんだね」……教諭たちの〝恵みの雨をありがとうございます〟と祈る声を覚えていたのでしょう。そのように何事もまっすぐに受け止める子どもたちから、自分の言動の影響力を改めて感じさせられ、その責任の重さと、いい加減なことは言えないとの緊張をいただきます。また、ある年のクリスマス。「サンタさんに何をもらうの?」こっそりプレゼントを用意しようとしていた母親が子どもに聞きました。五歳の男の子はこう答えました。「ぼくはね、なんにもいらないよ! だってもうイエス様をいただいたんだもの。」この世に生を享う けてまだ五年しか経っていない子どもが、こんなにも素直に神様を感じ取っている。その姿に触れることが出来、主に感謝をささげる毎日です。『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ十九章)』

こうしたエピソードを並べると、こんなに喜びに満ちた仕事は他にあるだろうかと思うのですが、もちろん嬉しいことだけではありません。大変だなぁ、苦しいなぁ、時には辞めたいなぁと思う事もあります。何時頃から幼稚園教諭はサービス業者になってしまったのでしょうか。保護者の訴えです。「小石が園庭に落ちています。うちの子が踏んだら危ないじゃないですか!」踏んで初めてそこで〝踏んだら痛いのだ〟と気付きを与えられるのですが、それをストレートに伝えたところで、ただ相手を憤らせるだけ。何の解決にも繋がらなくなってしまいます。言葉を選び、答えなければならないのです。子どもがそのまま大人になってしまったと思える今の保護者。もしかすると本当の子どもたちの方がずっと素直で理解力があり、のみ込みが早いのかもしれません。一人ひとりに優しく諭し、促し、宥めつつ、応えていく……保護者対応に追われる教育現場です。

入園して間もない三歳の女の子。彼女の今までの日曜日は〝パパと公園に行く日〟でした。しかし我が園では日曜日が正課となっている為、彼女は教会学校へ出席しなければならなくなりました。日曜日の朝、保育室の前まで来てこう叫びました。「神様なんて、だいきらい!」「すぐに助けてくれないもん!」「だから教会学校には行かない! 公園に行く!」このようなことは、よくあります。しかしそれらは祈りの中で解決されることがほとんどです。頂いた課題もまた恵み……受け取っていきたいと思います。

こうした日々の歩みの中で私が恐れている事があります。「先生は、出来ていないのではないですか。」いつ、何時、保護者にそう言われるか、いつもドキドキ、ソワソワ、私は怯えています。一人の罪深い、弱い人間ですが〝み言葉を語る幼稚園教諭(先生と呼ばれる者)は完璧でなければならない〟という、保護者の熱い期待と眼ざしの前で苦しい場所に立たされるのです。そのような時、ヤコブの手紙一章が私に厳しく語りかけます。『み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。』『わたしの兄弟たち。自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうか。(ヤコブの手紙二章)』『行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは、死んだものです。(ヤコブの手紙二章)』だらけ癖のある私には、とても胸に刺さるみ言葉ですが、こうした保護者や子どもたちを通して主の前に謙虚に膝まずく時を頂いているのだと、今、受け止めています。

時代の変化や親の価値観、ニーズに合わせ、幼稚園のあり方も問われる今があります。少子化という避けられない現実の中で、その時々に合ったものに対応しなければ、幼稚園の存続は難しく、頭をかかえ仕方なく廃園に追いやられる園も少なくありません。

世の中の幼稚園教諭たちはクレーム対応に追われ、精神的にも肉体的にも追い詰められている現状です。ではなぜ、それでもなぜ、働き続けるのか。社会や親たちが変わっていく中でも絶対に変わることのない神様の愛が、ここにあるからです。信仰をいただいた私たちは、ただただその愛を子どもたちに、その保護者たちに伝えたいと思うからです。最も権威のある方が「〝あなたは高価で尊い〟と言っているよ。」「コピーでは代えられない存在だと言っているよ。」神様があなたに与えてくださっている価値は本当に尊く、揺るぐことがない。イザヤ書には、どのくらい私たちを愛しているか、書かれています。大切な一人子イエス様を十字架につけて見殺しにしてまでも〝あなたは尊い〟と言ってくださる。世界中のたった一人のために、あなたのために十字架にかかると言ってくださる。あなたはそれだけ愛されているのだと伝えることが、教会の、そして附属幼稚園の使命

ではないでしょうか。私はそう考えています。み言葉の種をまき続ければ、いつか彼らが主に結ばれる日がやってくる。その日を信じて待ちたいと願うのです。「でも神は目に見えないですよね? なぜ神がいると信じられるのですか? 神がいれば、こんな怖い世の中にっているはずがないでしょう?」そのように訴えてくる保護者がいます。胸がしめつけられる思いです。そのようにこり固まった心を少しずつ解きほぐすことが出来るのは、イエス様と子どもたち。保護者は教諭の声に耳をかさなくても、かわいい我が子の言うことになら、しっかりと耳を傾けます。だから、あきらめずに勇気と祈りをもって伝えていくのです。「子どもたちと一緒に聖書を開きましょう。み言葉に聞いていきましょう!」と。イエス様の力をお借りして声をかけ続けたいと思います。また私たちにとっての〝本当の先生〟はイエス・キリストお一人ですから、教諭は子どもたちや保護者の前に〝教える人〟としてではなく、イエス・キリストに〝教わる人〟として、子どもたちと保護者と一緒に立ちたい、そう願うのです。

幼稚園の創立に関わった一人の教諭が、私にこう語りました。〝カナの婚礼〟で一生懸命、汗水垂らしてイエス様の言った通りに水汲みをした弟子たちは、あの場で唯一、水がぶどう酒に変わるという奇跡を見ることが出来た。私たち教諭も、あの弟たちと同じ。み言葉の種を蒔き続け、身体を使って、心を費やして、一生懸命汗水垂らして働き続けたその時に、多くの奇跡を目の前で見ることが出来る。これ以上の喜び、これ以上の恵みはないのだ、と。その通り、疲れが一瞬にして消えてしまう程の恵み多き毎日です。

さて、その愛の教育を受けた子どもたちは果たしてどのような大人になるのでしょうか。十年後、二十年後、ましてや五十年後、どのようになっているのか誰にも分かりません。でも確実に、一人ひとりの心にイエス様が染み込んでいるのだという確信をいただいています。そして、そのようなみ言葉の種を蒔かれ育った人間が事実一人、ここにいることは確かです。幼い私の心に種が蒔かれ、芽を出し、その道を志し、憧れていた〝幼稚園の先生〟になることが出来ました。決して立派とは言えませんが教諭と呼ばれる一人になることが出来たのも「あなたは神様に愛されてこの世に生を受けたのだ」と強く言われ続けたからだと思っています。神様に愛されている、その想いを無駄にしてはならない。今また、あらたに深く心に刻み福音宣教を諦めたくないのです。子どもたちはスポンジが水を吸収するように全てをまっすぐに受け止め心に蓄えていきます。「神様なんて大きらい!」と言った先程紹介した女の子。半年経った今の彼女は神様のことが〝だ~いすき〟になって、こんな歌をうたっています。 ♪イェス様を伝えよう。この小さな私にも何か出来るはず~♪

主の言葉をごまかさず、私自身がきちんと向き合って証し人とされたい。キリストの香りを放つ者とされたい。そう願います。時に人の言葉に傷つき、痛み、悩み、苦しむこともある。でもこうして、ここにいらっしゃる多くの信仰の諸先輩方が共に主のために働いておられると思うと〝くよくよしては、いられない!〟と励まされるのです。

今回、主を中心とするこの集いに加えていただいたこと、皆様と共に礼拝を捧げられたことを心から神様に感謝いたします。