クリスマスに思うこと―私がまもりたかった平和 木田 洋子

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信仰面でも体調面でも万全ではない私を、どうして神様はこのような場に立たされるのか、ずっと考えてきました。そして、欠けだらけの私に信仰の訓練の機会を与えてくださった神様の特別な恵みなのだろうと思うことにしました。そうはいっても、私がお話しできることは、ささやかな私個人の経験でしかなく、礼拝説教とはほど遠いものです。聴いていただくにはあまりにも拙いものです。そこをご容赦いただき、万事を益としてくださる神様にお委ねし、赦していただきながら語らせていただこうと思います。タイトルは「まもりたかった」と過去形にしましたが、今もまもりたいと思っていることです。

多くの子供たちがそうであるように、私も幼い時からずっと、クリスマスが楽しみな人間でした。この年になってもアドベントを迎える頃になるとワクワクします。子供の頃、日曜学校のクリスマス礼拝では、神様が罪深い私たちの罪を赦し救ってくださるために、イエス様を私たちの世に生まれさせてくださったと学んできました。幼い頃はその意味も、自分の罪深さもわかっていないまま、その言葉を素直に受け止め、クリスマスはその神様からの最高のギフトをいただいたことを感謝する時であると信じてきました。一二月二五日という世間でクリスマスとされている日、小学校から看護学校の時まではもう冬休みに入っていました。キリスト教の職場で働くようになってからは、一二月二五日はクリスマス休暇で仕事はお休み。思い返せば、キリスト教と無関係の職場で働くようになるまで、一二月二五日に働いたことがなく、「一二月二五日に会議をします」と言われて心底ビックリしたというほど、誰にとってもクリスマスは特別な日と思っていた、世間知らずでした。

教会から離れていた三〇代の頃もクリスマスには、家族で夕食の前にささやかな礼拝の時を持ちました。今日お読みいただいたルカによる福音書のクリスマスの記事を読み、子供讃美歌を歌い、イエス様のお誕生を感謝するお祈りをして食事、ということをしてきました。神様からイエス様というギフトをいただいたことに倣い、家族全員にそれぞれがプレゼントを用意して交換しました。幼い娘・息子は、一生懸命書いた手紙や絵をプレゼントに用意してくれました。山が好きな父親には、山頂で笑顔で万歳をしている家族の絵を描いたりして、何をプレゼントしたら相手が喜んでくれるだろうと、子供なりに考えて準備してくれていたことを思い出します。お金を扱うようになると買ったものが多くなりましたが、本好きの私には図書券、外仕事の多い父親には靴下、手袋等やはり相手を思ってプレゼントを選ぶことをしてくれていて、このクリスマス行事は、下の息子が小学校を卒業する年まで続きました。幸せなクリスマスでした。

子供を持ってから思うようになったことは、世界中の子供たちが今この時、幸せな時を過ごしているだろうか、ということです。報道などで、紛争や戦争に巻き込まれている子供たちのことを知るたびに、温かい食事と飲み物と、安心して眠れる温かく安全な部屋と社会をすぐにもたらしてください、と祈らずにはいられませんでした。こんな悲惨なことを経験しているのがなぜ、私の子供たちや私ではなく、かの国のあの子たちあの母親たちなのか、なぜ彼らは紛争の絶えない地に生まれ、私たちは日本に生まれたのか、考えても答えの出ない疑問に胸が潰れる思いでいても、どんなに願っても、神様はすぐに、私の求める平和をかの地に与えてくださるわけではなく、神様のご意志によってしか事は成されないのだということにむなしさを感じることも正直ありました。

聖書には、生まれつき目の見えない人は誰の罪のせいかと聞いた弟子たちに、イエス様が「誰の罪のせいでもない。神の業がこの人に現れるため」とお答えになった、という記事があります。これが神様のお答えなのだとしても、争いと暴力が繰り返される地域に生まれた子供たちがかわいそうでかわいそうで、祈ろうにも言葉が出てこない、ただ「神様……」としか言葉が出ない、祈りにもならない祈りを繰り返すだけ、ということを続けるしかありませんでした。

もう一つ私が守りたかった、過去形ではなく今も守りたいと思っている平和があります。平和というにはあまりに小さいものかもしれません。それは、病気や障害を抱えて生活し挟んでその両横で奥さんと息子さん大笑いしている写真です。息子さんと父親である患者さんとは長い間、確執があって良い関係ではありませんでした。奥さんはその間にいて、心痛める毎日を送ってきたということでした。介護の生活が始まっても、息子さんが介護を手伝うことはほとんどなく、寝たきりの父親や介護する母親への心遣いは期待できないように思えていましたが、ある年のクリスマスの前に「面白いのがあったから買ってきた」と、トナカイのかぶり物を出し、父親も含めて三人でかぶったらあんまりおかしくて、写真を撮ったということでした。「しんどいことが多い毎日だけど、たまには面白いことでもしようって息子が言ってくれる。たまにこんな優しさを感じられることがあると良かった~と思える」と奥さんは、その時はいつもの介護に疲れたお顔ではありませんでした。

私たちの日常の生活は楽しいことよりも、困難なこと、心が塞がれるようなこと、うまくいかないことの方が多いように思います。それでもたまにある、心から笑える瞬間、小さな喜び、感謝する気持ち、そういったことによって、困難や問題は全く解決していないけれど、またしばらくは穏やかに過ごせる、何とか前に進んでいける、ということがあるのではないかと思えます。それぞれの小さな家庭にある、こんなささやかな幸せと笑顔を私は「平和」と呼び、守りたいと思って仕事をしてきました。

戦争や紛争の原因となるのは歴史や民族の問題、経済問題、様々な主義・主張などのようです。難しくてわからないことだらけなのですが、それでも日本が間違った方向に舵を切っていることは強く感じます。毎日心がざわつくニュースが流れます。本当に日本は戦争を始めてしまうのかもしれない、と思ってしまいます。

私は昭和三〇年の生まれで日本が戦争していた時のことを知りません。でも、昭和二年生まれの父は敗戦の一年半くらい前に召集されました。千葉県の香取航空基地というところで戦闘機の整備兵をしていた時の話を、子供の頃よく聞きました。父の話から、戦争の恐ろしさや悲しさを感じ、日曜学校で学ぶ聖書のお話とも併せて、戦争とはしてはいけないものという思いを強く持つようになったと思います。父の死後知ったことですが、香取航空基地は神風特攻隊が本州から初めて硫黄島に飛び立った基地だったそうです。昭和二〇年二月のことで、父は敗戦までそこに居たということですから、特攻隊が飛び立っていくのを見送ったに違いありません。でも戦争の時の話はたくさんしてくれたのに、特攻隊の話は一度も聞いたことがありませんでした。ただ、非人間的な軍隊生活の中にも、人間的な交流の出来事はあったのだということもよく聞きました。召集された仲間同士の語らいや遊びもあったようです。その中で特に優しく、兄のように思える上級兵さんもいたんだということを聞いていました。私は、その上級兵さんは特攻隊員として飛び立って行った、それを父は見送ったのではないかと今は想像します。そしてそのことは誰にも話せなかった。戦争を憎み、戦争体験を子供に話すことで戦争の悲惨さを伝えようとしていた父も、とても言葉にできなかった体験がまだあったのだと父の死後になって知りました。父の経験した戦争は、言葉で伝えてくれた以上の悲しく辛い経験だったのだと改めて思わされました。

母は一三歳の時に長岡大空襲を経験しています。昭和二〇年八月のことです。真夜中、燃え盛る市街地を逃げまどい、焼夷弾の落ちてくる音と強い光の中に見えたたくさんの被害にあった人の姿が、一三歳の少女の耳と目に消えない記憶となって残りました。友達も失いました。長岡市は 毎年夏に、空襲で亡く なった人の慰霊として大花火大会を開き、それは有名な花火大会として全国から観光客が何万人も訪れます。私も友達と打ち上げ会場まで出かけたりしていましたが、母は、花火の打ち上げの音で焼夷弾と空襲を思い出すから花火大会は嫌いだと言って、見に行ったことがありません。

戦争や紛争は戦地や戦士だけの問題ではなく、普通の人の普通の暮らしを脅かし命をも奪ってしまうことは、先の大戦の経験を聞くことと、世界各地で起こってきた争いの報道から、戦後生まれの私たちも学んできたはずだと思うのですが、日本は、また同じ道を歩もうとしています。すごく不安です。日本がアメリカに追従して戦争に加担したら、あのひっそりと人生の最後の時間を静かに過ごそうとしている人、たまには面白いことをしようと、トナカイをかぶって大笑いしているあの人たちの暮らしをも脅かすことになる。飛躍しているように聞こえるかもしれませんが、私は自分の職業の立ち位置から、在宅療養しているあの人たち、この人たちの小さなささやかな暮らしがこれからも、その命を終える時まで平和であってほしいと思うのです。

聖書には、特に旧約聖書に戦争の記述や「聖戦」ということが書かれていますが、その旧約の時代から、神様のご計画は預言者達によって語られ、イエス様の誕生によって新約の時代となりご計画が成就したと学んできました。イエス様は、私たちに赦しと愛をもたらすためにこの世にお生まれになってくださいました。そのイエス様が、争って傷つけあう、殺しあうことを容認されるはずがありません。命を与えるのも奪うのも、それができるのは父なる神様だけです。私たちは、どんなに不条理な中に置かれても、憤ることがあっても、私たちの手で傷つけたり殺したりすることを神様から許されてはいない。イエス様の福音を知る者して、争うことは絶対にしてはならないということを表明していきたいと思います。でも現実的には、未だに紛争や戦争はなくならず、かえって世界中は憎しみと威嚇と恐怖が増してきています。世界にはまだ本当の平和は訪れていません。争いが繰り返される地に生まれた子供たちはずっと戦乱の中を生きるしかなく、平和を知らないまま亡くなっていく子供たちもいます。この子達の上に現される神の業とは何なのだろうと思います。そして、争いの中を生きるしかない所に生まれたのがなぜ私でなく、私の子供でもなくあの子供たちなのかということと、イエス様の福音の恵みを私はなぜ知らされたのか、ということを考えています。ひとつ示されたことは、主の祈りにある「みこころの天に成るごとく、地にも成させたまえ」という祈りでした。心をこめて主の祈りを口にしているつもりでも、もう覚えてしまった言葉として流すように口にしているのを恥じる者ですが、この祈りで言う「みこころ」とは、天の平和が地にも成るということであること、そして天の平和が地にも成るのは、その前の祈りの言葉「み国をきたらせたまえ」にあったのだということです。

子供の頃、イエス様の再臨の時が来るのが怖いと思っていました。再臨の時にはみ前に集められ、右と左に分けられ、永遠の命か永遠の罰かに分けられる。再臨の時は裁きの時、終末の時であると思って怖かったのです。でも、イエス様の再臨によって本当の平和がもたらされ、今争いの中で苦しんでいる子供たちがそこから解放されるのだとするなら、再臨は希望の時であり、「主よ来たりたまえ」という聖書や讃美歌の言葉の意味がようやく分かってきたように思います。今はイエス様の再臨を待ち望み、その時まで、イエス様がこの世にお生まれになったこと、十字架によって私たちを赦し、罪から解き放ってくださったこと、そして、再び私たちの前に現れて救いの御業を完成させてくださることを信じて疑わず、胸が潰れる思いを繰り返しても、ひたすら平和を望んで祈り続けていくことを神様から申しつかっているのだと思うのです。

毎年クリスマスになると、平和を願う気持ちが高ぶります。この思いを、クリスマスシーズンだけでなく、いつも静かに心の中に燃やし続けて生きていきたいと思います。

争いの原因や誘因は長い歴史の中でどんどん縺れが増強し、遥か昔のことも許せない、遣り返すといった未熟な精神が増幅していくように感じますが、簡単には説明できない要因がその背景にあるのでしょう。でも、だとしても、人を傷つけたり殺したりすることを看過する理由にはなりません。キリスト者としてどのような歴史認識に立てばよいのか、キリスト者としてこの事態をどう判断するのか、今まで難しいことだとしてあまり考えることができないままきてしまいましたが、これからはイエス様の救いの恵みの下、共助会の皆さま方の文言から学びながら、キリスト者としての覚悟をもって、真の平和の到来を信じて生きていきたいと思います。

一言お祈りいたします。 (共助会クリスマス礼拝でのお話を一部加筆・修正しました)