ほんものとの出会いの中で(「愛真の集い」礼拝感話) 小野寺 友実

みなさんこんにちは。

私は愛真高校の職員で国語科と女子寮の寮監を担当しております小野寺友実と申します。私は愛真高校の卒業生でもあります。

私は東京生まれ東京育ちなのですが、ずっと生まれてくる場所と時代を間違えたと感じていました。物と人で溢れ、情報が渦を巻き、何もかもが速いスピードで流れていく、そんな都会での生活とは、違う何かを求めていたのです。

そんなとき愛真高校のことを知り合いから聞き、電子機器を極力使わず、洗濯が手洗いでトイレのくみ取りもやっている、生徒達はギターを手に歌い、楽しそうに語り合っていると知り、「私の生まれてくるべき場所と時代はここだった」と感じ、入学を決意しました。

そして私は愛真高校で、たくさんの「本物」に出会いました。どこまでも自分を包み込む海、慰めを与える星。心からの喜びも、ヒリヒリするような痛みも教えてくれた人との交わり。その中で見えてきた、小さく、弱く、汚い自分自身。それでもそんな自分を温かく抱き止めてくれる存在。そのすべてとの出会いが、私に多くのものをもたらし、一人の人間にしてくれました。その尊さとありがたさを思い、高校3年の時に今度は自分が愛真で教師となり、少しでも受けた恵みを他者と分かち合うことができたらと思うようになりました。また、私は愛真で、心の中にすっとしみこみ、いつまでも自分の行く道を指し示す灯火となるような言葉に多く出会いました。だから、言葉の世界に浸り、味わい、そこから聴きえたものを分かち合うことを生なりわい業とすることに心惹かれ、国語科の教師となることを志すようになりました。その願いが聞かれ、大学と大学院で学んだあとに働き始め、今年で5年目となります。

そして改めて愛真で働くようになり、ここは「本物との出会いが与えられる場」なのだと感じています。そして、この「本物との出会い」なくしては、生きる上で本当に大切なことを知ることはできないのだとも思っています。自分や他者を大切にすること、何かを信じること、どんな時にも生きていていいのだということ。生きる上で大切で必要なものであればあるほど、それは「情報」や「モノ」では教えられない。実際にその人自身がさまざまな「本物」に出会い、経験を積む中でしか分からないことなのだと思わされています。だからこそ愛真では、ネットやケータイから離れ、自然や労働、人との交わりなどの「本物」だけを教材においいる。その意味と意義を、私はここにいればいるほど痛感させられています。

そんな愛真教育の大切な教材の一つに、「聖書」があります。愛真高校はクリスチャンを育てることを教育目標にしている学校ではないので、信仰を強制することは決してありません。しかし、2000年前に編まれ、今なお多くの人に読み継がれ続けている「本物」の古典でもあるこの書物、ここに示される世界観と本気で対話してほしいと願っています。そのことを通し、自分は何を大切にしたいのか、聖書のことばをどう受け止めるのか、聖書の呼びかけにどう応えるのか、本気で考えてみてほしいと求めています。それは必ず、その人を確かにすることにつながると思っているからです。

ではどうやって聖書を学ぶのか。愛真高校の創立責任者の師であり、この学校の礎に深い影響を与えている内村鑑三(1861〜1930)は、学生たちに「きみたちはどうやって聖書を読むか」と聞いたそうです。ある人が「心で読みます」と答えたとき、内村はうなずきながら、「足で読むんだ」と言ったのだそうです。体験を通し、自分の人生という実験を通し、聖書を読んでみる。そうすると、聖書のことばが頭だけではなく自分の内側に迫ってきて、沁みてくる。そんな読み方をすることを教えられたのだそうです。愛真高校でも、まさに人との交わりの中で、さまざまな生の体験の中で、「足で聖書を読む」、そんな読み方を皆でしていければと願っています。

私自身、生徒として3年、職員として四年半「足で聖書を読」むことを目指しながら、聖書のことばが幾度も自分の中に響いてくる経験を重ねています。その中の一つが、コリントの信徒への手紙二の12章9節です。

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。

弱い自分、理想通りになれない自分を見つけたとき、その弱さを誇れと聖書は語っています。それも、大いに喜んで誇れと言っているのです。

それはなぜか。

キリストの力が発揮され、キリストがその人の内に宿るからだ、とこの箇所には書かれています。

キリストが宿るとはどういうことでしょうか。それは、自分の弱さに悩み、自分に打ちひしがれる、そんなときこそ神さまは共にいる、ということではないでしょうか。森有正(1911〜1976)は、こんなことを言いました。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所で人間は神さまにお目にかかっている。そこでしか神さまにお目にかかる場所は人間にはい。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことはできない。」と。

私たちが自分に恥じ、悩み、苦しむとき、弱くて醜い自分を知るとき、そんなときこそ人は神さまに出会うことができる、そんな時こそ神さまが共にいる、そう言っているのです。弱さを抱える私たちを神は赦し、受け入れ、「そんなあなたでいい」と語りかけている。それが、聖書が伝えていることではないでしょうか。12章9節の「キリストが心の内に宿る」とは、どこまでも自分を赦し、受け入れている神さまを心のうちに迎えることだと思います。そして、弱さを抱えた自分を自分自身も赦し、受け入れ、大切にすることではないかと思います。

愛真高校にいると、私自身が自分の弱さに直面することが多くあります。

生徒もそうですが、職員にとっても愛真高校という共同体の中で暮らすというのは、人と人との距離がとても近い中で暮らすということです。それは人のことと同時に、自分自身も鮮明に見えてくることです。その中で私は、思ったように生きられない自分、自分のことも他者のこともよく分かっていない自分、気がつけば自分を守ろうとし、他者に本当の意味で寄り添えていない、受け入れられていない自分の姿を思い知りました。しかし、そんな自分の無力さに目が行く度に、先生方も生徒も、そんな自分を受けとめ、共に過ごしてくださっているということにも気付かされます。同時にこの世界に神がいる、そしてどんなに私が弱く小さくても見捨てず共にいてくださっている、今なお私を赦し、生かし、立ち上がるように支えてくださっていると感じるのです。

そんな恵み深い出会いと気づきの時が、この四年半幾度も与えられました。また生徒と話すとき、私も生徒の話を聞き、受け止めることを大切にしたいと思っていますが、私自身もまた生徒から問われ、聴かれ、受け止められることがあります。私自身の過去に受けた傷、自分の葛藤……、そんな一番脆くて弱いところを差し出し、その人が何も言わずに聴いてくれたとき、「分かります、私もそうです」と言われたとき、存在自体が抱き止められたように思い、生きていて良かったと思うことがあります。同時に、私自身が傷も弱さも醜さも抱えたまま生きる、一人の人間としてここにいていい、皆の前に立っていいのだと知ることができました。

愛真高校の創立責任者である高橋三郎先生(1920〜2010)は、こう語っています。「この愛真高校が福音によって立っているという一番大事な要は、その理想が高いということではありません。そうではなくて、イエスさまの赦しに担われているということ、その赦された罪人の群れが、互いに隣り人を愛の手に抱きしめて行こうとする。そこにこの学校の本当の姿があると私は思うのです」、と。この言葉にあるように、この共同体はこんなに小さな自分さえも抱き止めてくれている。そうやってお互いを受けとめ合おうとるところに、この学校の要があり、神さまの働きも表れているのだと感じます。

そしてこの、存在そのものを受け止められる喜びを、私は愛真で生徒からも聞くことが多くあり、そのことに深い恵みを感じています。卒業時、自分が3年間感じてきたことを語る時間があるのですが、そこでこう語ってくれた生徒がいました。

私は、誰かを信じることを恐れていました。傷付くことを恐れていました。本当は、人と関わることが怖くて仕方がありませんでした。そんな私は、ただただ毎日、周りの目を気にしながら皆が自分から離れて行ってしまうんじゃないかということばかりを考えていました。誰かのことを大切に思えば思うほど私は苦しみました。どうしても信じきることができなくて、申し訳なさと悔しさと孤独感で苦しみました。信じたくて、でも信じることはあまりにも勇気がいることでした。

現代は、本当の自分を出したら受け入れられないという不安や恐怖が、社会全体に、子どもの世界に浸透しているように思います。その雰囲気や人との関わりで受けた傷から、人が怖いという感覚が、社会の中に蔓は びこ延っているように感じます。この生徒は、皆と関わりながらも、人と関わることを恐れていたと言います。しかし、その後にこう続きます。

でも、そんな私を温かく抱きしめ、受け入れ、大切だといってくれる人が、ここにはたくさんいました。どんなに嬉しかったことか。そして同時に、どんなに苦しかったことか。そんな真逆の感情に何度も押しつぶされそうになって、私は涙を流しました。

気付けば私は、愛真生のあったかな、あったかすぎる心に触れていく中で、自然とみんなを信じたい、大切にしたいと思っていました。それは決して無理やりなんかではなくて、確かに私の奥底から自然と出てきた思いでした。

この生徒は、3年間をかけて他者への恐れや疑いを手放せない自分に出会ったと言います。しかし、同時に自分でも受け止められない自分を大切に受け入れてくれる他者と出会ったと言っているのです。それが自分の「存在」そのものに目を向け、どんな自分も大切であることに気付く機会になったことが示されていると思います。その人の能力や持ち物ではなく、その人の「命そのもの」「存在そのもの」を大事に受けとめ、そこに価値を感じることは、自分や他者を本当に大切にするために必要なことだと思います。自分の弱さや限界を知り、その自分がなおも他者に受け止められていると知ることは、存在そのものの大事さを知る時です。このように他者から受け止められたことを実感したこの生徒は、「心の奥底から自然と出てきた」自分の願いを見出したことも語っています。それは、「みんなを信じたい、大切にしたい」というものです。人から認められるためではなく、誰かとうまくやっていくためでもなく、心から湧き出る願いとして「みんなを信じたい、大切にしたい」という思いが生まれたというのです。

このように、他者との深い交わりの中で自分の存在の尊さを知ったという言葉を聞き、私は本当に嬉しく思いました。自分の存在の尊さ。それは本を読んだりネットを検索したりして分かるものでは決してありません。自分の限界を知り、弱さを突きつけられ、それでもなお受け止められているという温かさの中で、初めて少しずつ分かっていくものだと思うのです。それは、紛れもない本物との出会いによる、本物の経験です。

この恵みが与えられ、生徒と分かち合えることに心から感謝しつつ、私も愛真高校での本物との出会い、本物の経験をこれからも大切に積み重ねていきたいと願っています。