「わたしのいる所に、あなたがたは来ることはできない。」説教:飯島 信

■2020年5月24日(日)復活節第7主日

■列王記下 第2章1節-15節 ヨハネによる福音書 第7章32節-39節

お早うございます。

お元気でいらっしゃいますか?

東京に緊急事態宣言が発令されたのが4月7日、それから1カ月半の月日が経ちました。こうした動画による礼拝の配信を始めたのは発令された日のすぐ次の主日の4月12日ですから、今日で7回目となります。

立川教会の週報にも書きましたが、何の技術も持ち合わせていない私が、こうして皆様に動画による礼拝をお届け出来るのも、私どもの中国語礼拝の通訳を3年以上にわたって務めて下さっている飯田仰先生がいらして下さったからです。

飯田先生は、発令されたその日の午後、私の願いを聞いて下さり、お住まいの武蔵境から立川教会に、文字通り駆けつけて下さいました。そして、わずか数時間で、私のパソコンを用いて動画を送れるように設定して下さったのです。夢のようでした。

そして、つくづく思いました。

伝道者とはかくあるのだろうと。

何の技術も持ち得ない一人の牧師が、これから自宅で礼拝を守らなければならない教会員及び関係者のために礼拝の動画を届けたいと願った時、何はさておいても駆けつけてその願いに応える。きっかけは確かに私の願いです。しかし、飯田先生は、私のその願いの中に、神様の呼びかけを聞かれたのだと思います。立川に行き、礼拝を届けるために働くようにと。

私は、今回の飯田先生の行動を通して、改めて学ばされたことがありました。伝道者とは、神様の命ぜられる福音伝道の呼びかけに、己の持てる力の限りを尽くして応答する者であることです。そして、牧者として立たされたこれまでの己の歩みを振り返るのです。自分は、どこまで神様の呼びかけに応える者で有り得て来たのかと。

 

それでは、今日与えられた聖書の御言葉を見てまいりましょう。

7章32節です。

 

32:ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

 

下役とは、エルサレム神殿の警護の役人です。この1節には、イエス様を殺そうとするファリサイ派の人々と、イエス様との間に生まれている厳しい緊張が漲っています。ファリサイ派の人々にとって、イエス様を捕らえずにいることは、ますます民衆の心がイエス様に向かうようになり、その存在を抹殺するのに不利な状況を生み出されることでした。そのため、下役たちを使って、イエス様を捕らえるための実力行使に出たのです。捕らえられれば、イエス様を待ち受けているのは裁判にかけられ、殺されることでした。自らの死を覚悟したイエス様は、弟子たちに向かって語ります。33節です。

 

33:そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。

 

「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」

それは、この世の悪しき力、即ち真実を憎む偽善なる力によって自分は殺されるだろう。しかし、私は、殺された後、それで終わるのではない。自分をこの世に遣わされた神様のもとへ帰ると言うのです。つまり、死して、それで終わるのではないと言うのです。

死とは、誰にとっても絶対的なものです。一切の生の営みに最後の終止符を打つ力です。ファリサイ派の人々にとって、イエス様を捕らえ、殺すことは、イエス様に対するこの世の力の勝利を意味するはずでした。しかし、イエス様は、ご自分の死は終わりではなく、神様の御許へ帰ることだと言います。そして、34節です。

 

34:あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちはくることができない。」

 

世を去った後、イエス様は、神様が支配される神の国に、ただ真実のみが力を持つ神の国に自分はいると言われました。しかし、神の国について語るイエス様の言葉を、彼らは理解出来ません。この世の価値に身を任せ、それが全てである者たちにとって、神の国の奥義を知ることは許されていないからです。彼らは、イエス様の言葉を理解出来ないまま、呟(つぶや)きます。35、36節です。

 

35:すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

36:『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

この35、36節を読み終えた時、私は、ふと自分のことを考えました。自分は、このユダヤ人たちと比べてどうなのかと。

私たちは今、この箇所を読み、神の国を理解出来ないでいるユダヤ人たちを知らされています。しかし、それでは、自分たちは、ここに記されているユダヤ人たちとどこが違うのかと思うのです。

ユダヤ人たちが、イエス様の語られている言葉を理解出来ない理由は明らかです。この世の価値に身を任せ、それが全てである生き方をしているからです。この世の価値に身を任せる。ひと言で言えば、この現実の世に、自分が価値ある者として認められることです。

ユダヤ人たちは、ユダヤ社会の最も重要な決まりを記した律法に、自分がいかに忠実に生きているかを競い合いました。神の国にその名を刻まれる生き方ではなく、人々から認められ、賞賛されることを追い求めたのです。その結果、神様の御前において、守ることが喜びであったはずの律法本来の精神は失われ、律法遵守は、世の人々の名声を得、賞賛を得る道具に貶(おとし)められたのです。

 

それでは、私たちの今の現実はどうでしょうか。

当時の律法を守る生活を、私たちそれぞれの信仰生活に置き換えて考えてみたいと思います。私たちの信仰生活が、神の国にその名を刻まれる信仰生活であるのかどうかです。

こうした時、私たちに備えられているのは、祈りです。御前に跪(ひざまず)き、心を静かにしての祈りを通して、今日一日の自分に備えられた道を知り、その道を歩む聖霊による導きを求めるのです。

 

そして、私は緊急事態宣言以降、知らされていることがあります。

私たちの信仰生活の礎(いしずえ)となる礼拝についてです。

今、直接、顔と顔とを合わせての礼拝ではなくても、それぞれの家庭での礼拝において、「霊と真理とをもって行う礼拝」(ヨハネによる福音書4:23)がなされています。この動画によって礼拝を守っている数十名の方々、そして、動画を見ることは出来ないけれども、送られた礼拝次第に沿って、聖書を読み、讃美歌を歌い、説教原稿に目を通して礼拝を守っているやはり数十名の方々を知っています。その中には、立川教会の方も、単立キリスト教会の方も、バプテスト連盟に所属している方もいます。まさに、私は、今ここに、この時間に、所は違っても、確かな礼拝共同体を覚えています。そして、この礼拝から押し出されて、私たちはそれぞれの日々の歩みを進めていることを知らされるのです。

 

37、38節です。

 

37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

無教会の伝道者である高橋三郎は、彼の書いた『ヨハネ伝講義 下』で、この箇所を解説して次のように述べています。

 

「(イエスが捕らえられようとしていたこの)仮庵の祭は、新穀(しんこく)の感謝とともに、かつてイスラエルの先祖が40年の間荒野の旅を続けたことを追憶する機会であったが、この祭の期間中は、毎日夜明けに祭司たちがシロアムの池に赴いて、1・6リットル余り入る水差しに水を満たし、これを神殿にもって行って、燔祭の壇に注ぎかける習わしであった。そして、彼らが池から神殿の前庭の『水の門』に近づくと、そこで待っていた祭司たちが、三度ラッパを吹き鳴らしたという。ラビの伝承によれば、これは『あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む』(イザヤ12:3)というイザヤの預言に基づく祭儀であった。すなわち、シロアムの池から水を汲むことは、神の救いの井戸から汲むことの象徴であり、かつてモーセが荒野で岩を打って水を得たという故事も、生き生きと追憶されていたのである。」(p28-p29)

 

仮庵の祭りのこの場面が、鮮やかに蘇(よみがえ)って来るような記述です。

私は、この箇所で、特に「大声で言われた」との文言が心に留まります。

静かにではなく、大声で、人目もはばからずに大声で、です。しかも、この仮庵の祭りがクライマックスを迎える最終日にです。

祭りの中心であるエルサレム神殿の内外は、人々でごった返し、又人々の興奮も絶頂に達していたまさにその時、イエス様は、立ち上がって大声で叫ばれたのです。

彼を捜し、捕らえようとしていたファリサイ人や下役たちの目の前で叫ばれたのです。

ここに、この場面に、神様から遣わされたご自分の使命を全うして、神様の御許に帰ると言うイエス様の決意を見る思いがするのです。

神様から与えられた使命、それは、自分を遣わされた神様を信じ、自分をその独り子と信じて受け入れる者を、一人でも多く得ることでした。その使命を全うするためにこそ、「立ち上がって大声で言われた」のです。「わたしを信じる者は、その人の内から生きた真理の水が川となって流れ出るようになる」と。

 

「生きた真理の水」、それは神様から与えられる聖霊です。

 

最後の39節です。

 

39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 

主イエス・キリストを神の御子、救い主として信じる者には、神様から生きたつきない命の水、聖霊が与えられることの約束でした。

以上が、今日与えられた聖書の御言葉です。

 

来週は、聖霊降臨日、ペンテコステです。

イースターも、ペンテコステも、自宅での礼拝となります。

しかし、私は、それぞれ礼拝する場所は違っていても、この時、私たちは一つとなって神様を礼拝していることを心に深く覚えるのです。聖霊の導きにより、「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」(エフェソの信徒への手紙4:5)であることをです。

祈りましょう。