「人生の主軸」説教:朴 大信

■2020年5月24日(日)復活節第7主日

■マルコによる福音書14:27~31

 

しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

今日は、この主イエスが28節でお語りになった言葉を何度も噛みしめながら、そこに約束された主の恵みをご一緒に味わいたいと願っています。

 

さて、本日のマルコ福音書14:27~31に記された一コマの中で、皆さんはどこが印象的だったでしょうか。もちろん一つに絞ることはありません。けれども、おそらく多くの方が、前半よりも後半のあの主イエスのお言葉、即ち30節のこの言葉ではなかったかと想像します。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。

弟子のペトロのあの話だ。既にピンと来る方もいらっしゃるでしょう。そうです。この話は一番弟子のペトロが、この後実際に、主イエスのことを「知らない」と三度も否定してしまう、マルコ福音書14章66節以下の出来事を先取りする予告記事として、読むことができます。そして今日の箇所に付けられた小見出し(新共同訳)を見ましても、確かに「ペトロの離反を予告する」とあります。

この場面は、福音書に描かれる主イエスの受難物語の中でも、とりわけ私たちの心を掴むところではないかと思います。ペトロの姿に共感する人も少なくないのではないでしょうか。自分自身の姿をそこに重ね合わせることができるからです。あぁ、ペトロもやっぱり我々と同じ普通の人間だ。信仰を貫き通すことはなかなか大変なこと。でも聖書はそういう人間の弱さをも包み隠さず記しているから、親しみやすい。ちょっと安心さえする。

そうした思いを抱くことは、決して誤りとは言えないでありましょう。けれども、もしそこで満足してしまうなら、大変もったいない事だと言わなければなりません。なぜなら、ここにはペトロの弱さに対する主イエスの予告以上に、主のはっきりとした御意志、強い約束が露わにされているからです。そしてこれこそが、私たちの心を掴むものであってほしいと、主イエスご自身が願っておられるからです。それがあの28節の言葉です。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

さて、本日の場面の最初に遡(さかのぼ)りたいと思います。この場面は前回からの続きでありますけれども、あのユダの裏切りを含む最後の晩餐、主の晩餐の席を立ったすぐ後の光景です。主イエスの一行は、食事の席を後にしてオリーブ山に出かけました。祈るためです。しかし時は既に夜。したがって、暗い夜道ですので、躓(つまず)かないよう足元に気をつけながら歩いていたことでしょう。そんな状況で、主イエスが唐突に「あなたがたは皆わたしにつまずく」と仰った。

「わたしにつまづく」。山道に転がっている石ころで躓くと仰っているのではありません。主イエスご自身に対して弟子たちが皆躓く、と言われる。つまり、もうこれ以上主イエスについていけなくなる。従うことができなくなる。躓くな、という注意ではない。必ず躓くのだ、という予告がここでなされているのです。

なぜ躓くことになってしまうのでしょうか。その理由を主イエスはこう仰います。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」。―「わたしは羊飼いを打つ」。つまりこれは、父なる神が、羊飼いである主イエスを打ちたたいて撃つ。殺してしまうということです。そしてその結果、飼い主を失った羊たちは散ってしまう、というのです。

実は主イエスは、これを旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の預言を基に言われています。そこにはこう書かれています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。

ここでも、父なる神は剣に呼びかけて、「わたしの羊飼いに立ち向かえ」、「羊飼いを撃て」と命じられます。ここで大切なのは、なぜ神はそんなひどい事をするのだろうかという問いよりも、主イエスご自身が、この古くから預言されてきた神の言葉を、間もなくご自身の身に起こることとして受けとめ、今まさにその時が来ていると確信しておられるということです。神によって遣わされた羊飼いが、神の剣によって、審きの剣で撃たれる。

主イエスはここで明らかに、この神の審きの預言を、この後のご自身の身に差し迫った裁判と逮捕、そして苦しみの末の十字架上の死と関連付けていらっしゃいます。羊飼いである自分はもうすぐ撃たれて地上から去る。だから、羊である弟子たちは例外なく皆、わたしの元から散ってしまう。逃げてしまう。これが「わたしにつまづく」ということの意味です。

すると、一番弟子のペトロが、たまらず第一声をあげます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。ここには色々なことが想像されます。きっとペトロには、強いプライドがあったのでしょう。少し遡りますが、ペトロはかつてフィリポ・カイサリアの地で、主の御前で信仰の告白をしました。「あなたは、メシアです」(8:33)。揺るがぬ信仰を自負していた。それなのに主イエスは今日ここで、「あなたがたは皆・・・」と仰る。「皆?主よ、何を仰いますか。たとえ他の皆はあなたに躓くことはあっても、よりによってこの私に限っては、そんなはずはありません!」。そんな意気込みが感じられます。

この態度は、直ちに傲慢だとか、思い上がりだという風には言えないでありましょう。むしろ誠実だった。心の底から主イエスに従おうとした。「先生、死ぬ時は私も一緒です。先生のことを知らない等と言って逃げるものですか」。本当にそう信じていたのだと思います。実際には、ペトロはこれを守ることができなかった。しかしだからと言って、嘘つきとは言えないでありましょう。この時点では真剣そのものだった。

ところが、主イエスはさらに追い打ちをかけるように、ペトロの三度の否認をここで宣告されるのでした。しかしペトロにとって、この言葉は火に油です。彼はなおも主イエスに食らいついて、「力を込めて言い張」りました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。そしてこのペトロの独占的な勇ましさが、今度は周囲の弟子たちの自尊心をもくすぐって、皆こぞって誓いを立て始めるのでした。しかし結局、この後の展開は聖書に記されている通りです。彼らもまた、やがて主イエスを見捨てて逃げてしまいます。

はたして、ここで明らかにされていることは何でしょうか。主イエスの予告の的確さ、その洞察力の鋭さでしょうか。もちろんそうだと言えます。あるいはまた、ペトロをはじめとする弟子たちの意志の弱さでしょうか。もちろんそうとも言えます。これはコインの裏表の関係とも言えますが、主の御前にあっては、特にペトロの否認という弱さ、そしてその罪深さは、すっかりその覆いが取り除けられているということです。隠しようのない闇が明らかにされているということです。

しかしある人はまた、こう言います。ここで示されていること。それは、弟子たちの弱さを示す出来事であったかもしれないけれど、何と言っても、彼らが主の羊であることを示す出来事であった。彼らはどこまでいっても、羊飼いであられる主イエスの羊たちであるという真実。羊飼いが打たれたらたちまち羊も散らされるように、彼らがどれほど深く羊飼いに依存している存在であるか。この真実が明らかにされているというのです。

けれども皮肉なことは、それが弟子たちにとっては明らかでないということです。ただ主イエスにおいてのみ、それは火を見るよりも明らかな真実なのです。そうであるならば、ここで本当に私たちが見なければならないことは、単なるペトロの離反の予告に留まるはずがありません。弟子たちを突き放すようにして、彼らの弱さを暴露することでもありません。弱くならざるを得ない彼らの存在を丸ごと全て受け入れて、なおご自分との交わりの内に留めようとされる、主イエスご自身の決意なのです。

主は決して、「躓くな」とは言われません。「散り散りにならないよう、気をつけなさい」とも言われません。決意があるからです。果たすべき約束があるからです。その約束こそが、あの言葉です。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

今日ここで繰り返されるこの28節の言葉は、実際にはたった一度しか出て参りません。しかしどうもペトロは、この言葉を完全に聞き逃しているようです。自分のプライドに傷がついたことに躍起となって、主イエスのこのお言葉が全く耳に入っていないのです。けれども主イエスは今日ここで、否、今日だけでなくいつでも、まるで通奏低音のように、この決意の言葉を携えていらっしゃいます。いつでも、どこでも、誰に対しても、今この私たちに対しても、この約束を貫いてくださるのです。

「しかし、わたしは復活した後・・・」。この主イエスの「しかし」によって、覆されようとしている現実とは何でしょうか。それは自分がいったい何者であるか、気づくことができない現実です。主の御前にあって、この私はそのお方に養われるべき羊であるという真実を見失っている愚かさです。「つまずきません」「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」という誓いを立てた瞬間、その表面的な勇ましさの一枚内側には、この愚かな無知が頭をもたげ始めているのです。自らの意志や強さで主イエスに密着しようとしても、すぐに離れてしまう。遠ざかってしまう。否、自らの手で捨て去ってしまうのです。そして弟子同士もまた散り始めるのです。

こうして、決して主イエスとは一つになれない現実が突き付けられます。そしてそれは、まさしく私たちの罪の現実なのです。ペトロが主イエスを「知らない」と言う時、それは「否認する」という意味にもなりますが、それはより具体的には、関係の否認です。本当は主イエスのことを知っていながら、その関係から逃げ出す、その関係を断つ。全く独りで生きる。ここに、私たちの見えざる罪の根深さがあります。

誤解してはなりません。主イエスは私たちに、この罪に陥らないようにしなさいとは仰いません。もっと意志を強め、信仰を鍛えて、主から離れることがないよう際限なき努力を続けなさい、とは決して仰らないのです。そうではなく、主が今ここで「しかし」と言って覆そうとされる、その罪の現実を、人は何をもってしても克服することも、回避することもできないのだという真実を受け入れることなのです。それ故、それに勝利できるお方はただ一人。十字架への道は、主イエス以外には歩み通すことはできないのであります。

しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

今、主イエスが目指されているのは十字架です。死の闇です。苦しみの極みです。本来私たちが負うべき罪の罰を、主イエスご自身が身代わりとなって引き受けてくださるためです。そしてそれこそが父なる神の御心と、魂の内に留めていてくださるからです。けれども、そこで終わりなのではありません。主イエスが本当に目指しておられる場所。それは、死の闇を完全に打ち砕いてお甦りになられたその御体で、「ガリラヤへ行く」ことです。しかも、「あなたがたより先に」であります。弟子たちよりも先回りして、ガリラヤで待ち受けてくださるというのです。

ガリラヤ。それは弟子たちの故郷です。かつてそこで、漁師や徴税人として日常生活を営んでいたある日に、主イエスに突然呼ばれ、弟子としての歩みを始めることになった、そのふるさとです。けれども、この後間もなく主イエスが十字架上で息を引き取られ、墓に葬られてしまった後の弟子たちといえば、それはまさに、羊飼いを本当に失ってしまった羊のようであったことでしょう。彼らは、都エルサレムから失意の内に、故郷ガリラヤに戻って行ったに違いありません。

そこに希望はなかったはずです。主を失った悲しみ。それまでの日々の儚(はかな)さ。死んじゃったら全てがおしまいじゃないかという、言いようもない空しさ。絶望。帰ったら何をしようか。仕事も気力がない。置いてきた家族は受け入れてくれるだろうか。自分の命や生活を支えてゆけるだろうか。そんな不安や徒労感。何よりも主イエスに出会ったことで感じていた生きることへの手応え。生かされることへの喜び。しかしそれも、今となっては過去のこと。

まさに失意の里帰り。古い自分に逆戻りするほかないような帰郷です。けれども主イエスは、まさにその場所に自らが先立って赴き、弟子たちを待ち受けてくださるのです。散らされて心も体もズタズタになった彼らを、主ご自身がもう一度呼び集めて、復活された生ける御体の内側に一つとしてくださるのです。信仰を失い、信仰の対象さえ失った古き彼らに再び出会ってくださることで、新しい命と信仰の恵みに立たせてくださるのです。

本日の礼拝より、少しずつこの礼拝堂に戻って来られた方々がいらっしゃいます。新型コロナウイルスの対策は依然として続きますが、少しずつ制限を緩めることが許される状況ともなっています。しかしこれは、単にウイルスの感染状況が落ち着いたから可能となっている現実、というだけではないはずです。神の御赦しと御導きがあってこそと信じるものです。

ある意味で、私たちは今このコロナの影響で、一つに集まるはずの所から散らされている状況だと言えます。ウイルスが猛威を振るい、礼拝どころではないというような不安と状況をもたらし、今なおその状況は続いています。教会の頭、私たちの羊飼いであられる主イエスが、この混乱状況から私たちをどう守ってくださるのか。どこに立ち続けておられるのか。いったいどんな慰めを与えてくださるのか。それが見えない不安、聞こえない虚しさと闘っている現実があるのかもしれません。

それはある意味で、主イエスを目の前で失い、ガリラヤへショボショボと散らされて帰って行く、あの弟子たちの姿と重なるのかもしれません。いつの間にか、信仰に導かれる以前の、教会に足を踏み入れる以前の自分の姿、主イエスのことをまだ知らなかったあの古い自分の姿へと、逆戻りしてゆく不安。祈りを忘れてしまっている自分。ペトロのように、かつて「あなたはメシアです。あなたを信じて従います」と誓ったあの信仰告白は、まるで過去の白黒写真と化して、もう鮮やかな色合いなど全く失せてしまったような信仰模様・・・。

こうしてボロボロになってしまった姿は、もしかしたらコロナの影響に関係なく、既にとっくの前からあったことなのかもしれません。見て見ぬふりをしてきただけなのかもしれません。そしてこれからも、繰り返されてゆく失意の現実なのかもしれません。

けれども、主イエスはそんな私たちを決して放ってはおかれないのです。十字架の死を潜(くぐ)り抜けた生ける主イエスは、今日も私たちを探しておられます。私たちの羊飼いであり続けるからです。そして私たちはいつでも、飢え渇く砂漠のような大地から憩いの水のほとりへと、そして青草の生い茂る命の牧場へと導かれ続ける羊の群れだからです。その場所は、どこか遠くにある理想の彼方ではありません。主イエスが先回りして待っておられる、その場所です。そしてそれは、あなたのすぐ傍にもう訪れているのです。

しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

<祈り>

父なる御神様、良い羊飼いは羊のためにその命を捨てて下さいます。あなたの独り子キリストの光が、私たちの深い闇の奥底にまで届き、あなたと私を引き裂くあらゆる闇の勢力をのみ込んでくださいますように。どうか私たちを赦しの光の中に立たせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(日本基督教団 松本東教会)