「天の国を発見する喜び」説教:石田真一郎

■2012年5月17日(日)復活節第6主日

■詩編49編8~9、16節。マタイ福音書13:44~58節

 本日もイエス様のたとえ話が続きます。たとえは、よく聴いてよく祈って考えないと、その大切な真理のメッセージをつかみ損ねる結果になります。「天の国(天国、神の国、永遠の命)は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

 

畑はありふれた日常生活と言えます。当たり前になってしまい、私たちがもしかすると飽きてしまい退屈して、感動や新鮮さを感じなくなっている日常です。でも9年前の東日本大震災のあと、日本にすむ私たちはありふれた日常が大きな恵みだったことに気づきました。今回の新型コロナウィルス問題による試練の今はどうでしょうか。その前は当たり前のように電車に乗り、学校や職場やスーパーや飲食店に行き、礼拝堂に集まることも簡単だった。それが大きく制限されている今、それらが何と大きな神様の恵みだったかと痛感していると思うのです。大きな恵みをいただいていたのに、あまり感謝していなかった。これからは1つ1つのことにもっともっと感謝して生きていこう。そのように思う人々は多いと思うし、私はぜひそうありたいと願っています。

 

 昔の中近東の人は、家の大切な財産を土に埋めて保管することがあったそうです。戦争などがあると家を捨てて逃げる必要があります。その時、財産を隠す一番安全な方法は土に穴を掘って埋めておくことだったそうです。もちろん自分は正確な場所を覚えておかなければなりませんが、これが財産を他人に奪われない一番よい方法だったそうです。江戸時代の江戸でも同じでした。江戸は火事が多かったのです。そこで人々は大切な財産を地下に埋めたそうです。火事から守るためです。今年の2月頃だったか、私は東久留米市のスポーツセンター近くで遺跡の発掘の説明会があると知り、見学に行きました。東京都の埋蔵文化センターだったかと思いますが、縄文時代の竪穴式住居の跡などを発掘していました。江戸時代の鷹匠の小野家の屋敷跡らしき建物跡も発掘されていて、地下倉庫の跡のらしきものが見つかったと言っていました。江戸の中心地域と同じで、やはり大事なものを保管するために地下に部屋を堀ったらしいとの説明でした。イエス様の時代のイスラエルでも、ありふれた畑に、実は高価なものが隠されていることが実際にあったようです。それがこのたとえの背景になっているのでしょう。

 

人はふつう、ありふれた畑の土の下にすばらしい宝が隠されているとは考えずに、見逃しています。今日のマタイ福音書の終わりの方では、イエス様が育たれたナザレの村の大人たちがイエス様の語られることや行われることに驚いて言っています。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」このように人々はイエスにつまずいた、とあります。人々にとってイエス様は、赤ちゃんのときから知っている青年に過ぎませんでした。イエス様には特別高い学歴も、社会的な地位や肩書もありません。大工のヨセフの倅(せがれ)の大工でしかありません。腕はよかったでしょうが、平凡でありふれた、どこにでもいる大工の青年でしかありませんでした。でもそのイエス様が最も尊い神の子、世界の救い主キリストなのです。世界の宝のお方なのです。ナザレの大人たちにとって、それを受け入れることは困難でした。それでイエス様は嘆きを込めてでしょう、こう言わざるを得ませんでした。「預言者(イエス様は、預言者以上の方ですが)が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」

 

これと似ているのではないでしょうか。ありふれた畑・日常を見ても、人は何とも思わず、そこにすばらしい宝が隠されていることに気づかない。やはり気づかない鈍さに問題があるのだと思います。日常は実は大きな恵みなのですが、日常に埋没し過ぎると、そこにある大きな恵みに気付かない無感動に落ちてしまうので、そうならないようによく気をつけたいものです。畑に隠された宝、それはイエス・キリストだと言えます。私たちを愛し、私たちの罪を全て背負って十字架で死んで下さったイエス・キリスト! 私たちはよくクリスマスに言いますね。父なる神様から私たちへの最大のプレゼントはイエス様ですと。その通りです。

 

「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」これはたとえですから、このような言い方になります。誰かにその宝を取られたくないので、「しーっ」と隠しておき、畑の持ち主にも宝の存在を知らせないで、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。それほどすばらしい価値がある宝だと言いたいのです。本当は、お金で買えないほど価値が高いのです。実際にはイエス・キリストをお金で買うことなどできるはずがありません。そんなことは考えるだけでイエス様への冒涜です。しかしこれはたとえなので、この宝がほかの何にも比べられないすばらしい以上の価値を持つことを表現しているのですね。

 

イエス様はまた言われます。「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」畑の宝は、探していたのではなく、たまたま見つけたのですが、良い真珠の場合は商人が一生懸命探していたのですね。探し物が見つかった時の喜びは大きいのです。私は暫く前に、自分のノートを失くしたのです。私にとっては非常に大切なノートで、私がこれまでに書いた様々な文章を貼り付けてあるノートなのです。一生懸命探すのですが、なかなか出てきません。ある所に電話して、そこに置き忘れていないか訊ねてみたところ、そこで発見されたのです! 非常に嬉しくてほっとして、やや大げさに言うと死から甦ったような気持ちになりました。

 

このたとえの真珠は、商人が持ち物をすっかり売り払って買い取るほどの価値がある真珠でした。この真珠もイエス・キリストだと言えるし、神の清き霊である聖霊とも言えます。あるいは聖書だと言うこともできます。京都のクリスチャンスクールである同志社を創立した新島襄という牧師がいました。彼は江戸時代の末期に、函館から密航してアメリカに渡り、クリスチャンになり、牧師になって帰国します。江戸時代、外国に密航することは見つかれば死罪でした。彼は密航の船の中でイエス・キリストの話を聞いたようです。どうしても聖書というものを読みたくなった。まだ日本語の聖書は全然出回っていません。彼は漢訳聖書を購入します。中国語の聖書ですね。漢文で書かれている。彼は武士なので漢文が読める。買って一生懸命読む。新島襄はその時、自分の刀を売ってお金を作り、漢訳聖書を買ったそうです。刀は武士の魂です。武士にとって命と同じくらい大切なものです。武士の魂を売ってまで、聖書を買いたかったのです。聖書を無限の価値をもつ宝と信じたからです。

 

私に洗礼を授けて下さった若月健悟牧師は、同志社を卒業しておられますが、だからでもないでしょうが、「聖書は自分で買うものだ」とおっしゃったことがあります。どんなに苦労してもどうしても買いたいもの、聖書とはそのようなものだというのです。もちろん教会から聖書をプレゼントされてよいのです。私も洗礼を受けた時、結婚した時、教会から聖書をプレゼントしていただきました。プレゼントされることも大きな恵みですが、人間には罪があるので、ただで貰ったものをあまり大切にしない傾向があります。それはいけないことです。自分の懐を痛めて買ったものは、大切にします。若月先生が言わんとされたことは、聖書は自分の懐をどんなに痛めても構わないから、どうしても手に入れたいもの。それほど大切で価値があるものだ、ということです。そのために何ヶ月労働してもよいから、どうしても買いたい本、それが聖書だということです。3日ほど前に、私のある友人が、「自分は今、聖書を通読の2回目を始めた。パウロの手紙の内容はすばらしいですね」と語ってくれました。本当に感動してそう語っている彼を見て、「良いことを言ってくれたなあ」と感謝しました。新型コロナウィルス問題で外出の自粛が始まった頃、朝日新聞の天声人語にこんなことが書いてありました。「時間ができたのだから、これまでできなかった大著に取り組むのもよい。たとえば聖書の通読」と書いてあり、聖書通読のチャンスにして下さる方が多く出るとよい、「我が意を得たり」と膝を叩く思いでした。

 

こんな話もあります。昔あるクリスチャンの青年が、内村鑑三の信仰に非常に引きつけられていた。それである古本屋で内村鑑三全集が売りに出ているのを見つけて、多くもない持ち物を売り払って内村鑑三全集を買ったという話です。そこには内村鑑三による聖書メッセージがたくさん書かれているはずです。その青年にとって、この世のどんな魅力的な物よりも内村鑑三の深い信仰に存分に触れることのできる全集が宝だったのです。

 

イエス様の十字架の死と復活の後にイエス様に従う者となったパウロも、フィリピの信徒への手紙3章5節以下でこう書いています。彼はまず、自分が信仰の民イスラエル人として生まれ育ち、信仰の道でどれほど徹底的に精進して来たかを述べます。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し。ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」こう述べるほどイエス様に出会う前の自分は自信満々だった。しかしパウロの罪のためにも十字架に架かった謙遜なイエス様に出会って初めて悟ったことは、自分が高慢の罪を多く犯していることだったと思います。そして自分の道徳的完全主義の努力によって、神に本当に喜ばれる愛の人になることはできず、天国に入ることもできない。ただイエス様の十字架にすがるしか天国に入る道がないことに気づいたのです。イエス様の十字架の愛だけが、自分に与えられた真の宝であることに気づいたのです。

 

ですから続けてこう書きます。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのこと(律法=十戒をはじめとする神様の掟=を誰よりも熱心に守って来たこと)を、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべて(イスラエルでの社会的地位など)を失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」「イエス様の十字架だけが、私の救いだ。イエス様の十字架だけが、私を天国に入れて下さる力だ。」パウロはこの最も大切なことを悟ったのです。

 

本日の旧約聖書は詩編49編8節以下です。8~9節にこうあります。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値を高く、とこしえに、払い終えることはない。」9節は、宗教改革者マルティン・ルターが愛した聖句だそうです。聖なる神様から見れば、パウロも私たちも皆罪人(つみびと)です。私たちが人生で犯す全ての罪を、神様にどうすれば贖う(償う)ことができるのか? お金で贖う・償うことはできないのですが、あえてお金を持ちだすならば、何千億円、何百兆円積んでも全く足りないのです。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」最も尊い神の子イエス・キリストが、私たちの身代わりに十字架で死んで下さる最も尊い犠牲だけが、私たちの全ての罪の贖い・償いになります。ですから十字架に架かって下さったイエス様が、私たちにとって最大最高の感謝を献げる宝であられます。ですから、東久留米教会もどの教会も、神の真の救いの力である十字架を高く掲げています。十字架に架かって最高のへりくだりをなさったイエス様の愛に、深く深く感謝するためです。詩編49:16にこうあります。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府(よみ=死者の国)の手から取り上げてくださる。」その通り、父なる神様は最愛の独り子イエス様を十字架に架け、私たちの全ての罪をイエス様に背負わせなさったのです。ただただ、感謝です。

 

イエス様を救い主と信じた人は、イエス様の十字架と復活のお陰で天国というプレゼントをいただいています。言い換えれば永遠の命という希望をいただいています。豊臣秀吉の迫害で1597年2月に長崎の西坂の丘で殉教した26聖人の一人のルドビゴ茨木という12才の少年を思い出します。さすがに子どもを死刑にすることにためらいを覚えた役人がこう言ったそうですね。「信仰を捨てなさい。捨てれば命を助ける。」少年は答えます。「信仰を捨てません。この世の束の間の命と、天国での永遠の命を取り替えるのは愚かなことです。」そう言って、自分が上る十字架を抱きしめたそうです。そして十字架に上げられ、「パライソ、パライソ(天国、天国)」と言いながら殺され、天国に旅立ったそうです。新約聖書のヘブライ人への手紙11:26を思い出します。「(信仰者たちは)キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝(この世の財宝)よりまさる富と考えました。与えられる報い(天国)に目を向けていたからです。」そしてこの後歌う讃美歌21の522番をも思います。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も、このお方がわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」

 

マタイに戻ります。51~52節。イエス様が、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問います。弟子たちは「分かりました」と答えます。イエス様が言われます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」新しいものを新約聖書、古いものを旧約聖書と見ることもできるのではないでしょうか。天の国のことを学んだ学者(人)は、新約聖書も旧約聖書もよく学んだ人と言えるかもしれません。両方とも神の言葉ですから。あるいは人間の歴史はすべて神様が導いてきた歴史ですから、古いことからも新しいことからもよく学んで、これからの信仰の生き方に生かすことができる人とも言えます。

 

私は数日前にあるクリスチャンの文章を読みましたが、今回の新型コロナウィルス問題は全く新しいことのように思えるかもしれないが、17世紀のヨーロッパはペストに非常に苦しんだし、今から100年前もスペイン風邪の大流行があったと書いていました。今から30年ほど前にエイズ(HIV,後天性免疫不全症候群)が出て来た時、私は非常に恐怖を感じました。でも次第に薬が進歩し、病の進み方をだいぶ抑えることができるようになっているようです。新型コロナウィルスも、完全に消滅はしなくても、致命的にならないで済む薬が次第に開発されてくると思います。

 

イタリア・ミラノの校長先生が、学校が一時閉鎖になった生徒あてに書いたメッセージ(イタリアは日本よりずっとひどい状況です)が日本でも話題になりました。出版されたので買いました(『「これから」の時代を生きる君たちへ』、世界文化社)。スキラーチェというこの校長先生がクリスチャンかどうか分かりませんが、彼はまず似たことが17世紀にペストが大流行したときにもあったと述べます。その時こうなったと。「外国人やよそ者を危険だと思い込む、役所同士が激しく対立する、最初の感染者・・・を突きとめようと躍起になる、専門家たちの意見を軽視する(これは今回には当てはまらない)、さらにウイルスを広めた人たちの追跡・・・生活必需品の奪い合い・・・。」こうならないように気をつけようと、呼びかけます。「必要な予防策をとって」「休校中の時間を生かして、散歩をしたり、良書を読んでください。」 出版社の依頼によってスキラーチェ先生が書いた日本の生徒のためのメッセージも掲載されています。「人間らしい思いやりを忘れないように」してほしい。「家の中に閉じこもり、孤立するのは、誰にとっても困難な体験です。若者には、なおさら辛く感じられることでしょう。」「しかし、最悪の経験からも、得られることはあるのです。・・・この痛みはいつか、皆さんの財産になるでしょう。」「この動けない状態は、私たちのライフスタイルを考え直すよい機会になるかもしれません。」

「命や愛、友情や自然など、本当に大切なものは何か、理解する機会になるかもしれません。」「この危機を乗り越えたとき、皆さんはきっと変わっていることでしょう。よい方向に変わることができるかもしれません。・・・本を読み、考えることで、この孤独な長い日々を無駄に失われた時間にせず、有益で素晴らしい時間にしましょう。イタリアの生徒たちにとっても、日本の生徒たちにとっても、そうあってほしいと思います。」聖書の言葉ではありませんが、「古きをたずねて新しきを知る」という言葉もあります。この校長先生は、「天の国のことを学んだ学者」、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」に似ているのではないか。昔のペスト大流行のことから初めて、今の若者に非常に大切で心のこもったメッセージを送っている。私たちも、このような大人でありたいと、思わされるのです。

 

(祈り)父なる神様、聖なる御名を讃美致します。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々ですが、世界中で助け合い、支え合ってこの時を乗り切ることができますように、世界を連帯へと導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体で互いに愛し合って乗り越えるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

(日本基督教団東久留米教会)