「神を見上げて、豊かになる」説教:土肥 研一

■2020年5月17日(日)復活節第6主日

■ルカによる福音書12章13~21節(131頁)

ルカ福音書12章の初め、第1節に、イエスさまの周りに、数え切れないほどの群集が集まってきた、とありますね。迫害の脅威が迫っていたんです。みんな浮き足立っています。この人々の困難、そこに、私たち自身の現在の困難を重ねながら、私たちは今、イエスさまのお言葉を、ご一緒に少しずつ聞いています。

私にとって特に印象深いのは、先々週、ご一緒に聞いた第5節です。「だれを恐れるべきか、教えよう」。みんな不安で、恐れていた。私たちもそうですよね。コロナウイルスや、それにまつわる様々の恐れのただなかで、このみ言葉を聞きました。大きな矢印のような言葉です。イエスさまが天を指して、おっしゃっている。「私たちが本当に恐れるべきは、天におられる父なる神さま、お独りだ!」

 

1、

こうやって信仰の中心を指し示してくださるイエスさまの、そのお話をさえぎるようにして、今、群集の中から、ひとりの人が進み出る。そして、こんなことを言い出したんです。それが今日の箇所です。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。イエスさまのこれまでのお話とは、まったくかみ合っていませんね。どういうつもりか、わかりませんが、とにかく彼の大きな悩みがここにあったことは確かです。本当なら自分も相続できるはずの財産を、兄弟が独り占めしていた。そのことで彼の心はいっぱいになっていました。そこで強引に割り込んできて、イエスさまに訴えたんです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。

それを聞いたイエスさまは、お怒りになるのでもなく、ユーモアさえ感じられるような、切り返しをします。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。

「裁判官や調停人」というのは、かつて旧約聖書の偉大な指導者であるモーセに向けて、語られた言葉です(出2:14)。イエスさまはそのことを踏まえているでしょうし、イエスさまのお言葉を聞いた人々も感じ取ったでしょう。

「だれがわたしを、あなたがたのモーセに任命したのか」。そこには、はっきりと表現されてはいませんが、言外にこんなメッセージが続いているはずです。「わたしを、あなたたちのモーセにしようというのか? もしそうならば、もっともっと重要なことを、あなたに伝えなくては」。

 

2、

そして続けて、イエスさまは言います。15節「どんな貪欲(どんよく)にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。

「貪欲に用心しなさい。貪欲から、身を守りなさい」。これを聞いて私は、モーセの十戒を思いました。

今、イエスさまは、ご自分をモーセに重ねています。そのモーセが人々に与えた10のルールがありますね。そう、十戒です。イエスさまの言葉は、特にその第10番目の戒めと響き合っています。それはこういう戒めです。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出20:17)。

十戒の中で、私はこれがいちばん心に響きます。ズシンときます。「隣人のものを一切欲してはならない」。自分がこの罪と背中合わせにあるな、と思うからです。私には良いものが、すでに十分に与えられている。それがわかっていながら、なお、隣人のものが欲しくてたまらなくなることがある。このむさぼりの罪、貪欲。

今日イエスさまが、いわば新しいモーセとして指し示しているのは、この貪欲、むさぼりの罪です。「貪欲に用心しなさい」。貪欲は忍び寄ってくるんです。

この質問に立った人だけが、貪欲に襲われているのではありません。15節の最初に「一同に言われた」とあります。そこに集まっていた数え切れないほどの群集の、一人一人に向けて、その中にいる私たちに向かって、今日イエスさまがおっしゃっています。貪欲に注意しなさい。むさぼりの罪から離れなさい。

迫害の時だって、ウイルスが蔓延している時だって、変わりません。いやむしろ、そういう社会が不安定なときにこそ、この罪の力が強くなる。内向きになり、自分のことで精いっぱいになります。自分の生活を、自分の未来を守らなければ。そこに、貪欲の罪、むさぼりの罪が手を伸ばしてきます。

 

3、

 でもどうしたらいいんでしょうか。私の肉にからみついているような、むさぼりの罪から、どうやって離れられるのか。身を守れるのか。16節以下で、イエスさまはたとえ話を用いて、そのことを教えてくださいます。

 「ある金持ちの畑が豊作だった」。もうすでにお金持ちだったんです。でもさらに豊作だった。うれしいことですね。私たちもこの「金持ち」の一人です。金銭的なことに限りません。今日まで良いものを、神さまから、たくさんいただいてきました。そしてさらに今日も、明日も、良いものを与えられていく。

ヨハネ福音書の冒頭に、こういう美しい言葉が記されています。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)。ああ、これが聖書の人間理解です。良いものを、神さまから、あふれるほどにいただいて、今ここにある。

この金持ちの農夫もその一人です。恵みの上に、更に恵みを受けた。そこで、どうするか。問われます。彼も自分に問います。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。……こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」。あふれるほどの恵みを、大きく改造した倉に納めて、やれやれ、と安心している。

実はこのお手元の聖書の翻訳では、とても重要な言葉が訳出されていません。それは「私の」という言葉です。この短い箇所に四回も出てきています。それを訳すとこうです。

「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。……こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、穀物や、私の財産をみなしまい、こう私の魂に言ってやろう」。

すごく意図的な書き方がされています。このお金持ちは未来の計画を立てています。でもその計画に登場するのは、徹頭徹尾、「私」だけなんです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。……そうだ、こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や、私の財産をみな、しまっておこう……」。

でも、本当でしょうか、本当に「私の」作物、「私の」財産なのか。そうではない!

「これから先何年も生きていけるだけの蓄えができた」と安心しきっている金持ちの前に、万物のまことの所有者なる神さまが登場して、厳しく告げる。20節「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。

このたとえ話の最後に、イエスさまはこう付け加えます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

 

4、

神の前に豊かになる。これが今日の福音の主題ですね。群集の中から立ち上がって相続の訴えを始めた人に、イエスさまはこのことを伝えようとしています。貪欲を遠ざけ、神さまの前に豊かになりなさい。

「神の前に豊かになる」。どういうことでしょう。別の翻訳はここを「神に向かって豊かになる」としています。これが直訳です。そう、ここには方向性が示されているんです。あなたはどこを見るべきなのか。「神に向かって、神を見上げて、豊かになりなさい」。

自分を守ることに必死で、自分ばかりを見ている私です。「私の」作物、「私の」倉、「私の」財産。この自分が豊かになる。そのためには隣人のものにさえ手を伸ばそうとする。このからみつく貪欲。

でもこの私たちにイエスさまが今、新しい方向性を与えてくださる。「神に向かって」豊かになる。自分を見るのではなくて、父なる神さまを見上げる。神を見上げて、豊かになりなさい。これが今日、私たちが聞いている福音です。

先ほど、12章5節「だれを恐れるべきか、教えよう」というのが大きな矢印のような言葉と言いました。今日も、もう一度、この大きな矢印が示されています。「神に向かいなさい」。「神に向かって、神を見上げて、神の前に豊かになりなさい」。

「ある金持ちの畑が豊作だった」。本当はここが新しい出発点です。この時、感謝して神さまを見上げるなら、私たちは気づきます。このたくさんの、あふれるほどの良い物、それは神さまが、私に、お預けくださったものなんだ。何のために? そうです、苦しんでいる人、必要としている人と分かち合うために。そのために神さまは今、この財産を私にお預けくださった。ここに新しい道が開けていきます。

この道は、何よりイエスさまが進んだ道ですね。父なる神さまを見上げて、すべての良い物を私たちに分け与えてくださった。この同じ道へと、今日、招かれています。

 

先週、ちょうどこの説教を準備していた時、ある方がお手紙をくださいました。

「今回のコロナウイルスのことで、自分より、もっともっと大変な人がいると思います。その方々のことを思うと、何か自分にもできることはないかと、心がジタバタしてしまいます」。ああ、すてきだなあ、と思いました。「何か自分にもできることはないかと、心がジタバタしてしまいます」。まさに神さまに向かって、神を見上げている言葉です。

そして思いました。私の心はジタバタしているだろうか?

幸いにも今、私は健康をまもられて、豊かに暮らしています。幸いすてきな教会で牧師として働くことができ、愛する仲間も教会にたくさんいます。この祝福は何のためなのか。

今こそ神さまに向かって、心をジタバタさせるときです。世界が傷ついています。この今、神さまは、私たちに何を期待しているのか。この豊かさをどう用いるか。神さまを見上げて、イエスさまと一緒に、コロナウイルスの後の世界に向けて歩み出したいです。

(日本基督教団目白町教会)