「 澄んだ目で神に仕える 」説教 七條 真明

■2020年5月10日(日)復活節第5主日

■イザヤ書40:27-31/マタイによる福音書6:19-24

キリスト教会とは、イエス・キリストを救い主として信じる者たちの群れ、主イエス・キリストに従って生きる、主の弟子たちの群れであります。

もちろん、主に従って生きると言っても、主イエス・キリストという御方のお姿を、その目で見ること、肉眼で捉えるということは、地上に生きる者にはできないことです。聖書が語るところ、聖書の御言葉を通して、見えない主イエスのお姿を見るようにして生きるということ、そして、主イエスが聖書の御言葉を通してお語りくださるところ、お示しくださるところに視線を合わせて生きる、歩んで行く。それが、主に従って生きるということです。

今、高井戸教会の主の日の礼拝では、マタイによる福音書の第5章から第7章にかけて記されている、主イエスが山の上で人々にお語りになった御言葉、「山上の説教」の御言葉に聴き続けています。「山上の説教」には、私たちが、主イエスを信じ、従って生きる弟子の一人としてどのように生きるのか、生きたらよいのかを、主イエス自ら、お教えくださっている御言葉が語られています。この地上に生きる私たちがどこを見て生きたらよいのか。どこに視線を合わせて歩んでいったらよいのかを、主ご自身が「山上の説教」の御言葉を通してお示しくださるのです。

今日、ご一緒に聴きますのは、第6章の19節以下の御言葉です。その最初の部分、19節から21節にかけて、主イエスは、このような御言葉をお語りになります。

 

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。

 

主イエスは、「地上に富を積んではならない」、とおっしゃいます。地上における富は、価値が損なわれたり、盗まれて失ったりすることもある。そのようなことがない天にこそ、富を積みなさい、と主イエスはおっしゃいます。そして、さらに、こう言われます。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」。ここで、「富」と訳されている言葉は、かつての日本語の聖書、口語訳と呼ばれる聖書では、「宝」と訳されていました。「天に、宝をたくわえなさい」、「あなたの宝のある所には、心もあるからである」、主イエスがここでお語りなっている御言葉は、そのようになっていました。

「あなたの宝のある所には、心もあるからである」。ある人が、この主イエスの御言葉について記している中で、ご自身のお子さんがまだ小さな頃のこととして、こういうことを記していました。幼い我が子は、よく外でダンゴ虫を見つけてきては虫カゴに入れていた。そして朝起きると真っ先にカゴを見に行く。ダンゴ虫が、その頃の我が子の宝であって、いつもそのダンゴ虫のことを考えていた。

「あなたの宝のある所には、心もある」。幼い子どもの心の中を占めていたのは、その時の宝であったダンゴ虫のことであった。そのことが、小さな子どもの姿の中によく表れています。

自分にとって大事なもの。宝であるもの。宝としてたくわえているもの。私たちは、ダンゴ虫ではないでしょうけれども、いろいろなものを宝として持っている。たくわえているかもしれません。きっとさまざまなものを、自分の所有しているものとして、手元にたくわえながら生きる。それが、私たち地上に生きる人間の姿だということが言えるかもしれません。

その宝とは、それがあってこその自分。それがなければ自分は生きられないとさえ思っているようなものだ、と言ってもよいでしょう。誰もが、そのような何かを持っているからこそ、私たちは生きることができるのでありましょう。

 

しかし、私たちが宝とするもの、宝としてたくわえるものについて、時が過ぎて、しばしば経験することは、なぜそのようなものを、自分は宝としてあれほどまでに大切にしていたのだろうかという思いを抱くようになるということではないでしょうか。ダンゴ虫であれ、おもちゃであれ、気に入った洋服もまたしかり。主イエスがおっしゃるように、どんなに高級な服も虫がついて穴があいて駄目になってしまうということもあります。泥棒に取られる訳ではなくても、どこかにいってしまって、いくら探しても見出せなくなってしまう。そうやって失われてしまうということもあります。

また、健康であることが自分の宝だと思っている人も、病気をしてその宝であったものが失われてしまう経験をしたりします。そして、何らかの自分の才能や能力を自らの宝だと思っている人も、年による衰えと共に、あるいは何かをきっかけにして、それが失われてしまうということもあります。

ただ、私たちが、「宝」とか「富」、あるいはそれを「たくわえる」ということで、一番多くの者がすぐに思い浮かべるかもしれないものとして「お金」があるかと思います。手元のお金が乏しければ、私たちは心細くなる。それなりのたくわえがあれば、そういった心細さを抱かずに生きることができる、そう思うところがあるかもしれません。しかし、お金もまた、気が付けば、手元にあったお金がいつの間にか、さまざまなことに使っているうちに、あっという間になくなってしまった、そのような思いを抱く経験を、誰もが生きる中で、一度ならず、何度もしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、主イエスが、地上に富を積むな、天に富を積みなさい、と言われる時、決して私たちが地上に生きるところでの「富」、「宝」そのものを、頭から否定されている訳ではないことを思います。お金のたくわえを一切せずに生きることが一番良いこととされている訳でもありません。そうではなくて、自らの「富」あるいは「宝」とするものを、何のためにたくわえ、また用いるのかということを、ここで問題にされ、私たちに問い掛けておられるのではないでしょうか。

それは、私たちが、何を見ながら、どこに視点を合わせて生きるのか。歩んでいくのかということと深く関わることです。そのことを、主イエスは、22節から23節で、目についてお語りになっている御言葉を通して、お語りになります

 

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。

 

主イエスは、私たちの目が澄んでいるか、濁っているかを問われます。それが体全体、私たちの存在全体と関わっている。ここで、言われているのは、言うまでもなく、肉体の一部としての目の話ではありません。「あなたの中にある光」と言われるように、内なる目、心の目、あるいは信仰の目と言ったらよいでしょうか。心のうちに何を見ているか、ということを、主イエスはおっしゃるのです。

「目が澄んでいれば」。この「目が澄む」というところの「澄む」という言葉は、もとの言葉で「単純な」「純粋な」という意味の言葉です。目が一つのもの、見るべきものをしっかりと見ている、捉えている。そういう目のことを、主はお語りになっているのだということです。他方、「目が濁っていれば」と語られている「濁っている」と訳されている言葉は、「悪い」という意味の言葉です。「目が悪い」。視力の話ではありません。目が貪欲な目になっている。つまり、見るべきものではなくて、そうではないものを一心に見ているような目。そういうものに心を奪われている目のことを、主はおっしゃっているということです。

この目についての話が、直後の24節にも深く関わっているのだということがよく分かります。

 

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

 

 私たち人間が生きるということは、神を主人として生きるか、富を主人として生きるかのどちらかだ、と主イエスは言われます。その両方を主人としてそのどちらにも仕えるという道はない。それは、言い換えれば、神のしもべとして仕えるのか、あるいは富のしもべ、富の奴隷として仕えるのかのどちらかだということです。それは、すぐ前の、目についての話で言えば、その人が、心のうちに、神を見る眼差しをもって生きるのか、あるいは貪欲に富を心のうちに見て生きるのかということでしょう。主イエスは、神を見る眼差しをもって生きることがなければ、私たち人間は、富に心を奪われ、それに囚われて生きるほかない、そのようにはっきりとおっしゃるのです。

 

私は、以前に、福祉の仕事をなさっている一人のキリスト者である方から、その方が、一時期、海外で生活をされた時の思い出として、こういう話を聞いたことがあったのを思い返します。その方は、海外で生活する間、あるキリスト者の方の家でホームステイをさせてもらうことになったのでありました。ホームステイ先であるその家を訪ねると、その家のご主人から歓迎され、そして最初にこう言われたのだそうです。「この家にあるものは、みな君のものだ。だから、冷蔵庫に入っているものも自由に食べたり、飲んだりしていいし、洗濯機やその他、使いたいものは自由に使って構わない」。

私にその海外生活での思い出を語ってくださった方は、その言葉に心打たれて、その家での経験を忘れがたいものとして心に留めておられました。言うまでもないことかもしれませんが、その方のホームステイ先の主人は、物が有り余っているとか、信じがたいほど裕福であるから、そのような態度を取ったということではなかったでしょう。もし、そうであれば、その家にホームステイしてお世話になった人が、その言葉を忘れがたい言葉、その家での滞在経験を忘れがたいものとするということもなかったでありましょう。

今日の主イエスの御言葉に照らして言えば、神を主人として見ている人、それゆえに富にとらわれず、天に富を積む、宝を積むということを知っている人と出会った、その出会いの経験を、私に語ってくださったのだと思います。

私たちは、そのような人と同じように、立派な振る舞いができるだろうか、とてもできないと思います。そうかもしれません。しかし、この人が見ているところ、心のうちに見て生きているところは、まさに、私たちにもまた、主イエスが語り掛け、しっかりと見て生きよと呼びかけ、招いていてくださるところではないでしょうか。

 神を唯一の主人として生きる。それが、私たち人間が、本来生きるべき道であるからです。そして、私たちが、まさにその生きるべき道に生きるために、主イエスは、今日の御言葉に先立って、祈ることを教えてくださったのだと思うのです。第6章の9節から13節にかけて、「だから、こう祈りなさい」と主はおっしゃって、「天の父よ」と呼びかけて祈るように、「主の祈り」の御言葉を教えてくださいました。

 

祈るということは、見るべきものを見る目を持つということです。私たちは、今、この地上に生きて、天を見ることはできません。しかし、見ることはできない天に、私たちの父でいてくださる御方、神さまがいてくださる。そのことを、主イエスから教えていただいた者として祈る。その時、私たちは、やはり天を見る。天に視線を合わせているのだと思います。

 その時に見えてくるものがあります。それは、私たちが所有して、たくわえてそれを用いて日々を生きているもの、自分の富、自分の宝としているもの、それはお金であれ、共に生きる家族であれ、何かの才能や能力であれ、また心も体も、私たちの人生も、そして命そのものも、私たちの唯一の主人、私たちの天の父である神さまから、すべてを与えられて生きている。私たちはそれらすべてを与えられ、任されて、それらを用いて生きるように、生かされている存在なのです。そのことが見えてくる。

 私たちが、本当に生きるべきところに生きるために、私たちの見えない天から救い主が来てくださいました。天の父を指し示してくださり、天の父よ、と呼びかけて祈ることを教えてくださいました。神を主人とせず富に囚われてしまう私たち人間が、もう一度神さまのものとして、神を主人として生きることができるように、十字架に命を捨ててくださいました。

私たちは、御言葉を通して、その御方、主イエス・キリストを見るのです。そして、主イエスがそこから来てくださり、また復活し、生きておられて、今いてくださる天を見上げる。主がお示しくださった天の父なる神さまを唯一の主人として生きる。その幸いの中に生きるのです。

 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。私たちの真実の富があるところとしての天を共にしっかりと見上げて、地上で与えられた人生、そのすべてを生かして生きる私たちであることを、主が心から願っていてくださいます。

 

祈ります。

天の父なる神さま、あなたは、私たち人間を、ご自身の御手によって創造なさり、私たちが生きるように、と命をお与えくださいました。私たちは、神さま、あなたのものです。どうか、あなたをまっすぐに見ることができず、富に囚われてしまう私たちの目を澄んだものにしてください。御子イエス・キリストの十字架の贖いによって清めていただいた者として、天におられるあなたをまことの父として、喜びをもって仕え、あなたから与えられているものを喜び、また感謝しつつ、御心に従って用いる歩みを、天に富を、宝を積む歩みをなさせていただくことができますように。御言葉と御霊とをもって、絶えず私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。

(日本基督教団高井戸教会)