「飼い主のいない羊のように」 説教 片柳榮一

■2020年5月3日(日)復活節第4主日

■聖 書:マタイ福音書9章35-38節

 

新型コロナウィルスによる「緊急事態宣言」の中で我々は、異常な状態、しかも人々が病に倒れてゆく悲惨な状態におかれています。そのような中でさきほど読んだ聖書の箇所がしきりに思い出されました。この記事は、地上のイエスの姿を最も簡潔に記して、読む者の心に深い印象を残します。他の福音書ではどのように記されているかを見ようと思い、新共同訳聖書で並行記事を見ようとしましたが、この記事が、マタイだけに記されていることを知らされました。あらためてこの箇所の貴重さを知らされました。

そしてこの記事が置かれた位置、場所から考えると、これはマタイ福音書が記した、イエスのガリラヤでの宣教活動の始まりの時期のまとめのように思えます。そのことも頭におきながら、見てみたいと思います。最初に「イエスは町や村を残らず回って」(9,35)とあります。残らず回ってという表現はなかなか味わいのある翻訳です。原文は、単に「すべての町や村」です。口語訳も「すべての町々村々を回って」と訳しています。味のあると感じたのは、確かにすべての町や村なのですが、何処も落とすことなく「残らず」とイエスの心の思いを表現しているように思えるからです。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」(35)とありますように、この経めぐりが単なる物見遊山ではなく、会堂で「神の国がやってきている」と告げ知らせ、そしてそれと関連して「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と述べています。「ありとあらゆる」とあるのは、口語訳で「あらゆる病気、あらゆるわずらい」と忠実に訳しているように、両方の名詞にそれぞれ「すべて」英語でいえばallにあたる形容詞的なものがついたものです。「ありとあらゆる」と強調されることで、イエスの癒しの業が力あるものであることが鮮やかに示され、また同時にイエスがあらゆる患いに心を痛めていたことも感じられます。新共同訳のマタイ福音書のこの箇所の担当の訳者(誰か知りませんが)の冴えを感じます。それはともかくイエスの宣教活動と癒しの業が深く結びついたものであることを知らされます。このいわば鮮やかで力強いイエスの活動を動かしているものを次の節は言い当てています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた」。弱り果て、とありますが、これは皮をはぎむしられ、であり、打ちひしがれて、とあるのは、打ち捨てられて、というのが原語の意味です。羊で言えば、オオカミや山犬に襲われ、皮を剥がれ、食い散らされて、死体はごみのように打ち捨てられているという意味です。人々を驚かせるような力ある業、あらゆる病の癒しの業をなしているこの人物の心を突き動かしているのは、群衆の置かれた或る種痛ましい惨状です。「弱り果て、打ちひしがれている」群衆の惨状の根本にあるのは、「飼い主がいない」ことであると述べています。ここでは飼い主はなによりもまず、獰猛な野獣から羊を守ることが求められており、そして安全なところに導くことです。その飼い主がいないため、野獣のしたい放題に羊が悲惨に襲われるのです。

人間集団、社会を「羊の群れ」として表すのは、この地中海沿岸、中東世界でよく用いられる表現といわれますが、この社会の惨状の原因を「飼い主がいない」こととして述べているのは、現在の世界の混乱とも関連して、深く考えさせられます。社会の混乱と悲惨さを「飼い主のいない羊の群れ」と表現し、真の守護者、真の王を求めることは、旧約聖書の伝統、殊に預言者の伝統でもあります。一つだけ見ます。列王記上の22章、17節を見て下さい(できればエゼキエル34章も参照してください)。預言者エリヤが激しく批判し戦ったことで有名なアハブ王に対するもう一人の預言者ミカヤの言葉です。イスラエルとユダの共同の敵であるアラム人にたいして戦うべきかとのアハブ王の問いに対してミカヤは間接的に戦うべきではないことを述べて、言います。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしはみました。主は「彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事帰らせよ」と言われました」(22,17)。自分の勢力拡大のために戦いを始めようとする王に対して、民が如何に悲惨な状況にあり、戦いによってさらに一層の窮状に巻き込まれることを警告しています。このように民の安全を守る指導者の不在が民の悲惨さを増していることが示されています。

マタイ福音書記者は、この飼い主のいない羊の群れのように弱く倒れている人々を主イエスが「深く憐れまれた」と述べています。これまでも多くの人々によって、この言葉が新約聖書で如何に印象深く語られているかは繰り返しのべられてきました。マタイはこの言葉を五千人の給食の記事においても用いています。マタイ14章の13節ではイエスが洗礼者ヨハネが斬殺されたことを聞いて「ひとり人里離れたところに退かれた」と記されています。しかし群衆はイエスを探して集まります。イエスは「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」と述べられます。並行箇所のマルコ6章,34節では「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろ教え始められた」と述べています。マタイではイエスが退かれたと記したそのすぐあとで、「舟から上がり大勢の群衆を見て」とあり、続きが不自然で、マルコの方がもとになるという印象を与えます。それはともかく、憐れむという言葉と飼い主のない羊が、先のマタイ9章の箇所と同様、セットにされています。深い同情、共感を意味する「憐れみ」を引き起こす群衆の悲惨さと、飼い主がいないということは深く結びついています。このぽっかり空いた空白の下で、イエスは黙々と癒しの業を続けています。

私は最初にこの9章の言葉はイエスの宣教活動の最初期の、マタイによるまとめなのではないかと推測しました。4章の12節からイエスの活動が始まりますが、そのきっかけは洗礼者ヨハネの逮捕であり、恐らく洗礼者ヨハネがユダヤの地で洗礼を授けていたところにイエスも居られたとマタイ福音書からは推測されますが、そこから遠い所、つまりイエスの生まれ故郷ナザレもあるガリラヤに退き、ガリラヤ湖の岸辺のカファルナウムを中心に活動されたと言います。この地をマタイは「湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15-16節)と記しています。イエスが活動を始められたのは、まさに暗闇と死の支配する処であると語っています。極めてラディカルな教えである「山上の垂訓」から始めて、その活動の様を記しているのも、マタイのラディカルな信仰の姿勢を印象的に示しています。

そして「垂訓」が終わった8章からは、続けざまに三つの病の癒しの記事を記しています。イエスの活動の根本に「新しい権威ある教え」があり、それに基づいた癒しの業が続き、この二つが一緒になってイエスの活動の全体を担っていることが分かります。まさにマタイは骨太に、まずその「新しい権威ある教え」を「山上の垂訓」で記し、そして癒しを中心としたその活動を次のように記しています。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った』」(8章17節)。この有名なイザヤ書53章の言葉は、通常いわゆる「贖罪」の言葉と解されています。この箇所を読んであらためて驚いたのは、マタイはここでイエスの癒しの業に関して、この言葉の成就だと言っています。イエスが病者の患いを癒す業を指して、患いを「負い」病を「担った」と述べています。癒し手としてのイエスは、力あり、弱い者にその力を分けてやるといういわば、裕福な者が有り余る物の中からわずかなものを、困窮し喘いでいる弱者に施しをするということではないのです。いわば「上から目線」ではなく、イエスの癒しの業の本質を為すのは、「患いを身に引き受け、病を自らの内に担った」ことであると言います。倒れている者の傍らに立ち、寄り添うことだということです。このマタイの聖句引用とその解釈は真剣に受け取る必要があると思います。すぐに贖罪の教義で済ませず、イエスの活動の本質が、我らの病を自らに引き受け、ともに苦しみ、病を身に引き受け、担い、傍らに寄り添うという困難な業であったことを心に刻む必要があると思います。

このことと関連して、「飼い主のいない羊の群れ」の悲惨さについてあらためて考えさせられます。旧約聖書以来の伝統として、羊の飼い主として、王や政治的指導者がイメージされることがしばしばあります。そして今日の世界の混乱も、真の指導者がいないことと関連して語られることがあります。確かにしっかりとした理念を持ち、判断を誤らない「正しい指導者」が求められ、そのような意味で、「飼い主」としての指導者が求められます。しかしマタイ福音書がイザヤの預言を引用しながら、見つめるイエスの姿は、単に群れの先頭に立ち、迷わず正しい道に導く「飼い主」というイメージに留まらないものがあるように思われます。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」」(8章17節)と言われる時、この飼い主は、病に倒れ伏す者たちの間に立ち混じり、その中にこの働き手としては見えなくなっているようです。そのように人々の悩みと悲しみの間に埋もれ、倒れ掛かりながらなお強く働かれた方として、飼い主イエスが示されているように思います。それは旧約の伝統としての民の指導者、王という姿からはかなり遠いところにきてしまっているといえます。しかしマタイは羊を導く飼い主に関して、このイエスにおいてこそ、その真の姿に出会っている確信があったのだと思います。

(日本基督教団 北白川教会信徒)