「あなたはわたしの敵の前でわたしの前に宴を設け」説教 片柳 榮一

■2020年4月19日(日)説教

詩編23編より

この詩篇23編は、私が若い頃から親しみ好んできたものの一つです。殊に前半には美しい詩情が溢れています。主なる神が牧者で、飼われる羊には何の不足もなく、その守りのうちに憩っている。その安らぎは、今の春のような新緑の青草の野に広がっています。青草を養っているのは、川の水であり、パレスティナの乾燥した所では、我々の想像以上に、川のほとりの緑の広がりは貴重で、人々を憩わせるものなのでしょう。そしてその安らぎの根底にあるのは、主ヤーヴェの導き、見守りにたいする、子供のように素直な信頼です。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10,15)と言われたイエスが生きられた信仰に通じるものが、ここには感じられます。

しかし前半のそのような素直な信頼の雰囲気と後半の暗く緊張した情景は、一応自分なりに連続すると思いながらも、私には長いことうまく結びつかないものでした。ところで今回のウィルス脅威の騒然とした雰囲気の中でこの詩編を読み返してみて、この詩編の記者がこの詩編を語っている場所は、何の心配もない穏やかで平安な場所ではなく、むしろ出口のない深い暗がりの底だったのではないかと思わされました。而もなおそのような中で、驚くべき素直さをもって主に信頼して生きているのではないかと思います。「あなたの鞭、あなたの杖」といわれているのも、ある苦痛に満ちた災いの体験の中で、詩人は声を発しているのではないかと思わされました。

そして今回、殊に5節の言葉が印象深く眼に留まりました。「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる」。口語訳では次のようです。「あなたは敵の前で、私の前に宴を設け、私のこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます」。

この「食卓」「宴」は、単に生存のために私たちがとる食事という意味以上のものが、あるように思われます。古代の人々にとって食卓を囲むということは単なる生きるエネルギーを得るということ以上の意味があったようです。宗教的なるものの源に関わるような意味を人々は共に食事をすることに見出しています。一つだけ引用します。出エジ24章9-11節です。神との契約である「十戒」の締結の儀式について記したものです。「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの70人の長老と一緒に登っていった。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」。神との契約締結の共同の場が、食事としてなされているのです。この箇所は表現も少しぎこちない粗削りさをもっており、最も古い伝承を伝えている箇所だと推測されています。最も神聖で重要な行事は、必ずと言ってもいいほど「食事」を伴っているのです。

私たちが読んでいる詩篇の作者にとっても主が整えられる「食卓」は深く重い意味を持っていると思います。自らを苦しめる者、敵を前にしても、神が食卓を整えて下さると信頼しています。このいわば嵐を前にしての、あるいは嵐の直中での静けさを詩人は持っています。

今私たちはコロナウィルスのために通常の礼拝ができなくなっています。そのような中であらためて、礼拝とは何かということが私たちに問いかけられていることを思います。そしてこの詩編は私たちに一つのヒントを与えてくれているようです。自分を苦しめる敵を前にしても主がなお「食卓」を備えて下さると言われています。私たちの礼拝も、主が整え備えてくださる食卓であり、私たちはその食卓に供えられた主の食事に与るのだと思います。礼拝は、私たちが先ず自ら備えて守るというよりも、主が私たちのために、困難と脅威の直中で整えて下さる「食卓」です。苦難の中で、主とともに喜び祝う「食卓」として、礼拝の時が与えられていることを思わされます。それぞれの場で主の備えたもう「食卓」をなお私たちと共にする兄弟姉妹を覚えながら、主を仰ぎたいと思います。

(日本基督教団 北白川教会信徒)